黒衣の情人 26
上の胸縄が白い肌に食い込むのがわかりました。ちくちくとした感触が、一斉に薄い皮膚を襲うのです。
そして、先端だけを濡らしていた水滴が淫楽に火照った白い乳房の上にも気まぐれに落ちかかりました。
キュッ バルブを締める音が、わたくしの荒い息の向こうで響きました。
ようやくわたくしを狂わせた水のしたたりが止まったのです。
大きな淫楽の波が収まると同時に、わたくしはようやく体勢を最初に括られた状態に戻せました。
「祥子。」
「・・・は・い。」
「飲みなさい。」
口元に差し出されたのは、シャンパンのグラスでした。
水を与えられていながら、一滴も口にすることのできなかったわたくしの喉はからからに乾いていたのです。
足元はきちんと排水され、わたくしのまわりがぐっしょりと濡れていることと、パンプスの内側に水滴が光っていることだけが今の責めの証拠でした。
わたくしは喉を鳴らして、グラスの中の冷たいシャンパンを飲み干したのです。
「大人しくしてなさい。」
背中にキシキシと麻縄の音が響きます。そうしてようやく上体を柱から引きはがすことができたのです。
長谷川さんは、かがみ込むようにして両脚を縛めていた黒の綿縄を解きます。
水を吸う事がないようにと膝の位置で止められていた縄も、足首の水滴の跳ね上がりですっかりと重くなってしまったようです。
自由になった脚を閉じようとして・・・力が入らなくなっていることに気づきました。緊縛と快感に、緊張を続けた脚は太ももまでふるふると震えているようだったのです。
「立てなさそうだね。いいよ、少し背中をこちらに向けなさい。」
長谷川さんの声に膝を左に振って、後ろ手に括られた背中を向けたのです。
先ほどと同じような縄音をたてて、高手小手に結ばれた麻縄が解かれるまでさほどの時間は必要がありませんでした。
「そんなに、水責めが気に入ったのかい?祥子。」
「違います。いじわる・・・。」
解いた縄を手に正面に回ってわたくしを覗き込んだ長谷川さんを、濡らさない様に肩口に頭を付けて一言だけ答えました。
それもやっとだったのです。
初めての快感は、どんな玩具よりもわたくしの性感を掻き立て、性も根も尽き果てるほどに疲れさせていたのです。
「このまま責めの続きをしたいが・・・」
「・・だめ・・ゆるして。」
「ふふ、わかっているよ。」
わたくしの身体を引き起こすと、長谷川さんはご自分の座っていらしたあたりからタオルを持って来てくださいました。
大きなバスタオルをふわっとひろげると、肩にかけて包み込んでくださったのです。
わたくしを直撃していた工事用の照明も、いまは逸らされて柔らかな明かりに変わっていました。
「こっちへおいで。」
ピアノとは全くの反対方向。透明のビニールシートに覆われた端に暖かな気配がありました。
黒衣の情人 27
「ジャグジー?」「そう。少し暖まるといい。」
「長谷川さんは?」
そういって、背を向ける長谷川さんに思わず声を掛けてしまったのです。
ご一緒すれば、ここで責めが始まってしまうかもしれないのに・・・。
それでも、遠くから照らされる工事照明だけの薄明かりの中に、ひとり取り残される心細さが勝っておりました。
「すぐに、来るよ。必要なものはそこのベンチの上にあると思う。先に暖まっておいで。」
「あの・・・シャワー。」
責め立てられて・・・蜜に濡れそぼったはしたない身体のままでジャグジーに入るのは気が引けました。それに・・・。
「祥子の香りの湯に入るのは楽しみだからそのままでいいよ。とは言っても気になるのだろう。向こうの扉が化粧室になっている。ウォシュレットもついているから、どうしても気になるならそれを使ったらいい。」
「はい。」
長谷川さんには、わたくしの考える事などお見通しなのです。
素直に頷いて、わたくしは化粧室を使わせていただくことにいたしました。
スポーツクラブ併設のジャグジーなのでしょう。
マッサージ効果を感じさせるほどに、強い水流と気泡がわたくしの身体を包んでおりました。
鞭の痕は、思ったよりもいまは痛くはありません。
さすがに長谷川さんです。あれだけの細いハリのある革を束ねた鞭を使用しても、必要以上にわたくしの肌を傷つけはしないのです。
いまは、想像を越える快感に抗う様に身を踊らせてしまった麻縄の痕が気になりました。
デコルテの白いなだらかな肌と、二の腕と手首に・・・くっきりと赤い縄痕が残っておりました。綿の縄と違うのは繊維が勝っていることによる小さな細かい赤い印が目立つことでした。
泡立つ浴槽の中で、緊張に収縮していた筋肉が一気に弛緩したあとの気怠さにゆっくりと浸っていたのです。
ジャグジーの横には身体を休めるための大きめなベンチが用意されていました。
ちょうど指向性の強い工事用の照明が切れるあたり、近くを流れてゆく明かりで暗くはないのですが、身にまとったものを脱ぐには恥ずかしくない程度の明かりが届いておりました。
その上には大小のタオルとバスローブが2組。それにシルクのバッグが1つ。足元にはバスマットが敷かれていたのです。
化粧室を使わせていただいたわたくしは、バスマットの外でパンプスを脱ぎました。左のストッキングの留め具を外し、黒のマットなストッキングをするすると足先まで下ろしました。次いで右脚へ。ちいさくまとめると、Tバック下ろし、ガーターベルトの後ろのスナップを外したのです。
それからさきほど長谷川さんが掛けてくださったタオルで身体を覆い、ボディタオルを髪が濡れない様にターバン状に巻き付けたのです。
黒衣の情人 28
室内と、外に夜景の映る窓と・・・どちらを向いて着替えればいいのか、一瞬悩みました。長谷川さんの言葉を借りれば、窓は室内を見る事ができないようにシーリングされているそうです。それでも、不特定多数のどなたがご覧になっているのかわからない外に向かって着替えをする勇気はありませんでした。男性に着替えるところを見せたくないと思うわたくしでも、たとえ闇の先に・・・長谷川さんの目があったとしても、それでもまだ外に背を向ける事を選びました。
「お湯の温度は大丈夫かい?」
「はい。気持ちいいですわ。」
身体がほんのりと暖まってきたころ、ようやく長谷川さんがおいでになりました。衣服は脱がれて、腰にタオルを巻いただけの姿でしたが、設計の先生とはおもえない鍛えられた引き締まった身体をしてらっしゃいました。
「どれ・・」
タオルをベンチに置いてジャグジーにいらっしゃいます。
丁度階段を3段ほど上がったところにジャグジーはありました。
「ん、いい感じだね。」
長谷川さんの身体の分だけ溢れたお湯は、ジャグジーのフレームの排水溝へと流れてゆきます。
「いい景色でしょう。」
「ええ、昼間も充分に楽しめるでしょうね。」
「ほう、祥子さんにはこの景色の意味が解っているんだね。」
わたくしの左隣に腰を下ろした長谷川さんは、眼の前のガラスを見てそうおっしゃいました。
その夜景は、ところどころに黒々とした闇を含んだ明かりのタペストリーでした。明かりのないあの闇は、昼間は公園の樹々なのでしょう。夜空を全て煌めく明かりで埋める景色は、昼は無機質なビルの連なりでしかないことが多いのです。
夜明けになれば、あの闇の中にいまの時期なら紅葉が、春には桜がみられるのかと思うと設計家としてのその配慮にわくわくするものを感じました。
「いえ、さほどには。でも朝が待ち遠しいですわ。」
「ははは、施主に聞かせたいね。」
愉快そうに長谷川さんは笑うのです。
きっと、このジャグジーをどこに置くかで一悶着あったりしたのでしょう。
「身体は大丈夫かい。冷えきったりしてないか?」
「はい。随分あたたまりました。」
「ならいいが。」
「でも、縄の痕が・・痛いです。」
「済まなかった、祥子さん。あれには綿縄を使う訳にはいかなかったんだよ。水を吸う事で緩んで撓んで来てしまうからね。逆に革の拘束具だと、水を含むだけどんどんと締め付けてしまう。水を使うときにはあの麻縄が最適なんだ。そんなに、痛むかな?」
そんな理由があるとは思いませんでした。ただ・・ただ、酷く責める為に麻縄を選んだのだとばかり思っていたのです。
「ん、ちょっと。」
わたくしは、拗ねるようにそう言ってみました。
「わかった。後で薬を塗って上げよう。とても良く効く傷薬がある。」
「そんなものまでお持ちなの?」
「ああ、祥子さんになにかあったら困るからね。その白い肌に無闇に傷をつけたいわけじゃない。細心の注意は払うが、万が一の時の為に一応用意している。」
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そうでした。かりそめの、ブームにのっただけの自称サディストでは・・・この方はないのです。女性に責めを課すなら、その責めに見合うだけのリスク管理をきちんとされる、真性のS・・・それが長谷川さんでした。
「それじゃ、いま、お薬を下さい。」
「濡れた肌には塗れないよ。」
「いいえ、痛み止めの・・・キス。」
わたくしは、拗ねたように少しだけ背けた身体を捻るようにして顔だけを彼の方に向けたのです。瞼を軽く閉じて、薄く・・唇をひらいて。
「ん・・ん・・っく・・」
長谷川さんは唇を重ねると、今度は遠慮なくわたくしの少しの狭間に暖かな舌を差し入れてきたのです。唇だけでなく、舌を、上顎を、歯の根を・・・ゆっくりと長谷川さんの力強い舌が這って・・やさしく愛でてくださったのです。
「んぁ・・ぁ・・」
ねっとりと・・・長谷川さんの唇と舌がわたくしから喘ぎを引き出しながら、離れてゆきました。いつのまにかわたくしの身体は、長谷川さんの長い腕の中に抱き取られていたのです。
「薬は効いたかい?」
「・・・はい。」
わたくしはうっとりと、彼の問いに答えていました。慈しむような優しいキスは、先ほどまでの過酷な責めを甘美な思い出へと変えていたのですから。
「祥子さんがこんなに甘えただとは知らなかったよ。」
「あ・・・ごめんなさい。」
わたくしは、甘えているとは思ってもおりませんでした。ただ、いまは、心のままに長谷川さんに身を任せていただけでした。
でもそのようなことは、SとMの二人の間には許されないことだと・・・彼に言外に責められた様に感じていたのです。
「いや、嬉しいよ。こんな可愛い祥子さんを見る事ができてね。」
「ちゅく・・・ぅ・・」
今度はわたくしがおねだりをして・・のキスではありませんでした。ご褒美としてのキスでもなく・・・責めとしてのキスでもなく・・・さも愛おしいと言う表情で唇を重ねて下さったのです。
「ん・・ぁん・・だめ・・」
「ふふ、相変わらずの艶めいた声を上げるね。祥子さんの声は媚薬だよ、まったく。」
わたくしの身体に触れる長谷川さんの塊は、フェラチオを始めたとき以上に堅さと大きさを増していたのです。
「祥子さん。僕のものにならないか。」
ジャグジーの泡と長谷川さんの身体に抱かれながら、夢見心地になっていたわたくしの耳に彼の声が届きます。
「わたくしを1年も放っておいて、お逢いしたらプロポーズですか?」
こんなシチュエーションで囁かれた言葉を、わたくしは茶化してみせるしかなかったのです。
黒衣の情人 30
「いろいろとね、片付けるのに1年かかったんだよ。」「お仕事のこと?長谷川さんの設計には人気があってお忙しいって聞いたわ。」
わたくしの質問に、長谷川さんは苦笑いを浮かべました。
「仕事もそうだがね、祥子が自分だけじゃないと嫌だと言ったじゃないか。」
たしかに、1年前にわたくしを望んでくださった長谷川さんにその他大勢の女の一人になるのは嫌だとお話はいたしました。
「また、ご冗談ばかり。」
「冗談じゃないよ。Mの中には僕に精神的に依存しているものもいるからね、そう簡単に切り離すわけにいかなかった。時間を掛けて全員と円満に関係を終わらせるために1年必要だったんだ。」
「そんな・・・可哀想だわ。」
「彼女たちに魅力を感じなくなってしまったからね。気持ちのない主に形だけ縛り付けられる方が可哀想だろう。どの女性もいいMだった。いまはそれぞれ新しい主の下で幸せにしているよ。」
「そんな・・・。」
「本気だと言ったろう。まさか僕が乞う側になるとは思わなかった。いまは他のMには興味がない。ここをこんな風にできるのも、祥子さんだけだ。」
わたくしに触れる塊は、熱と硬度を増していたのです。
「こんないい方をするからいけないんだな。祥子さんを愛している。一人の女性として、人間として。そして僕のSを満足させててくれるMとして。祥子が欲しい。」
「買いかぶりですわ。わたくしはそんな女じゃありません。」
真面目な長谷川さんの声に、先ほどまでの責めも色を変えたのです。
わたくしを愛しているという長谷川さんの表情も、身体も・・・ほんの少しも嘘をついてはいないと感じたのです。
こんな告白を、いまここで聞く事になるとは想いもしませんでした。
1年前とは違って、あの夏のパーティでわたくし自身のことも知ろうと思えば出来たことでしょう。
「すぐに返事をくれと言っている訳ではない。だが、これからは逢う事くらいしてくれるだろう。」
「・・・・。」
わたくしは無言のままで、長谷川さんを見つめたのです。
このままお逢いし続けていいのでしょうか?
「大丈夫だ。もうこんな風に困らせるようなことは言わない。それとも、僕は祥子さんに振られたのかな?」
わたくしは黙って首を横に振りました。
わたくしにもすぐに関係を断ち切る事などできない方達がおりました。
嫌っているわけではありません。長谷川さんのお仕事もお人柄も・・・わたくしを責めるその技もわたくしを魅了しておりました。長谷川さんだけのものになる・・・お約束はできなくても、この方を嫌うなんてことどうして出来るでしょうか。
「よかった。祥子さんを巡るライバルは多そうだ。強敵ぞろいだろうからね。だから気長に待つよ。時には、僕とも付き合ってくれるね。」
「はい。」
優しい長谷川さんの言葉に、わたくしはようやくお返事をすることが出来たのです。
この方に、その場限りのお返事はしたくなかったからでした。