2ntブログ

蛍火 1

はっきりしない梅雨空の月曜日。
わたくしは、蛍で有名な都内のホテルに来ていました。
とはいっても、いまは午後4時。夏至を過ぎたばかりのこの時期、まだ蛍火を楽しむことなんて出来ないほど明るい時間です。
 
今日は、先輩デザイナーの『還暦を祝う会』です。60歳になられたばかりの男性デザイナーは、細身でお年を感じさせない矍鑠とした方でした。数年前に再婚したばかりのわたくしよりも若い奥様を連れて、会場の中央テーブルで幸せそうにお酒を召し上がってらっしゃいます。
緑の起伏のある庭園が美しいこのホテルを指定されたのは、当のデザイナーだそうです。
以前にお話した時も日本3大名園のことを聞かせていただいたことがあります。
そんな庭好きのゲストに相応しく、パーティ会場は、ホテル内のレストランではなく庭園の中に設けられた料亭に設けられていたのです。
 
今日予定はこのパーティだけでした。
お仕事のアポイントメントがなかったわたくしは、パーティに相応しい少し華やかな装いでこの場に来ておりました。
緑が濃くなったお庭でのパーティとうかがって、黒の肘までの半袖のトップス、黒のレースのたっぷりとしたフレアスカートを選びました。
アクセサリーはピンクパールのロングネックレスでした。
ランジェリーは、ほんの少しだけピンクがかった白のサテンとレースのセットにいたしました。フルカップのブラとTバック。それに揃いのガーターベルトでナチュラルのストッキングを吊りました。
サイドがカットされたハイヒールのパンプス。
背の中程まであるストレートロングの髪を、パールのかんざしでアップにまとめたのです。
 
同じ業界の友人関係とはいえ、今日の招待客の方達はみなさんわたくしよりもキャリアの長い先輩の方達でした。
一通りご挨拶をし、主賓にお祝いを言いにうかがうころにはそろそろお開きの時間になっておりました。
久しぶりにお逢いしたデザイナーの方によると、今日の主賓はいま少しお風邪を召されているそうです。
「だから、二次会って言われる事はないと思うわ。」というその方の言葉どおり、会は予定時間通りに終わったのです。

幹事の方の〆のご挨拶をうかがって・・・わたくしたちは主賓を見送りに、ホテルのロビーへと向かいました。
久しぶりのお酒で上機嫌の男性デザイナーは、見送りにきたわたくしたちに手を振ると、奥様とタクシーでお帰りになりました。
今日の参加者の方達もそれを汐に三々五々解散なさいます。
わたくしも・・・どうしようかと、暮れはじめたお庭を振り返った時でした。
「祥子様。美貴様とご一緒にいらした祥子様ですよね。」
大柄な髭を蓄えた男性に名前を呼ばれたのです。
そこにいらしたのは、美貴さんと山崎さん・石塚さんの3人で年末の夜を過ごした、タワーホテルのメインダイニングのグランシェフでした。
とても見事なジビエの腕前と・・・それから・・ご自分の職場で・・メインダイニングの開かれた窓際で・・・わたくしを辱めることのできるS性をお持ちの方だったのです。
「お久しぶりですね。今日はこちらに御用だったのですか?」
わたくしの脳裏に、ふいにあの夜のことが思い浮かびました。
羞恥にまみれたあの夜の記憶にほんの少し頬を染めてしまったことを、気付かれないかと気が気ではありませんでした。
「ああ よかったです。憶えていてくださったんですね。」
夏らしいコットンのベージュのスーツが堂々とした体躯のシェフには良くお似合いでした。
白いシャツの胸元は第二釦まですっきりと開けられています。あの時も・・・コックコート姿と同じくらいスーツ姿もダンディだったことを・・・思い出しました。

蛍火 2

「なかなかシェフのところにお伺い出来なくて申し訳ございません。」
またぜひお越し下さい、とあの夜に言われながらもう半年以上が過ぎていたのです。
「ははは、ここでシェフでもないでしょう。田口です。祥子様はもうお忘れになりましたか?」
明るい・お腹の底から出てくるような笑い声も、あの時と同じでした。
「ごめんなさい、田口さん。お名前を忘れていたわけではありませんわ。それでしたらわたくしのことも、今日はあなたのお店のお客様でもないのですから<様>は抜きでお願いします。」
「そうでした。とはいえ、祥子、と呼び捨てにしたら美貴様達に怒られてしまいそうですから、今日は祥子さんと呼ばせていただきます。」
「ふふふ」
この方はそんなことまで憶えていてくださったようです。
たった一度お逢いした方。でも忘れることなんてできない方との久方の再開でした。
 
わたくしは、ロビーでひとり思案顔をしていた訳を、簡単にお話したのです。
「先ほど知り合いの方の還暦のお祝いが終わったところですの。こちらのお庭の蛍は有名でしょう。せっかくなら見てゆきたいと思って。田口さんはどうしてこちらに?今日はホテルの方はお休みですの?」
「ええ、月曜日なので休みなんです。このホテルのフレンチのシェフが後輩にあたるものですから、夏の繁忙期前にちょっと顔を見に来たんですよ。」
こちらのフレンチダイニングは、安定したお味と繊細なメニューで定評があります。シェフがこの方の後輩さんだとうかがえば、なるほど・・・と頷けます。
「もう御用はお済みになられたの?」
「ええ、彼とはランチの後の休憩時間にゆっくり話してきました。そろそろ帰ろうか、たまには蛍でも見ようかと思っていたところで祥子さんのことをお見かけしたんです。」
ちょうど夕方の6時すぎ。
夕暮れの気配がほんの少し忍び寄ったロビーは、真っすぐに帰宅することを躊躇わせるような空気が漂っていたのです。
「1人で蛍も味気ないと思いましたが、祥子さんが一緒なら別です。いかがですか?まず食事でもして、頃合いを見て蛍狩りでもしませんか?」
わたくしもお話をしながら同じことを考えておりました。田口さんをお誘いするのも・・・悪くない、と。
「ありがとうございます。それではお言葉に甘えて、ご一緒させていただきます。」
軽く頭を下げるわたくしの白い首筋に、田口さんの視線が注がれていたことに・・・その時は全く気付いてはおりませんでした。
 
「召し上がりたいものがありますか?今日のパーティではなにを召し上がったのですか?」
レストランの並ぶ方へと田口さんはゆっくりと歩いてゆきます。
「和食でしたの。でも、ガーデン・パーティでしたからとても軽い・・・先付けをオードブルにした感じのお料理でしたの。」
「庭の中の料亭にいらしたんですね。じゃ、ぜひ後輩の仕事を祥子さんの舌で批評してやってください。」
「批評なんて、いやですわ。田口さんたら」
シェフにエスコートされて席に着いたのは、庭に面したフレンチレストランだったのです。
「料理はまかせしていただいてよろしいですか?」
「ええ、好き嫌いはありませんから。」
「それでは、シーズン・ディナーを。それとおすすめの軽めの赤ワインをおねがいします。乾杯はシャンパンがいいな。最初に持ってきて下さい。」
てきぱきと、田口さんがオーダーをなさいます。
きっとつい先刻まで、後輩だというこのレストランのチーフシェフとコースのお料理のこともお話をされていたのでしょう。
どんなメニューか知らずに待つことも、お食事という場では楽しみが増すというものです。
 
「シャンパンでございます。」
わたくしたちの前に2つの細かい泡が立ち上るフルートグラスが用意されました。
「では、偶然の再会に乾杯。」「乾杯♪」
軽く目線に上げたグラス越しに視線を交わすと、はじける液体を喉へと流し込んだのです。
「おいしいわ。暑い時期にはこの爽快感がすてきね。」
口中にひろがる葡萄の香りはマムのように思えました。
「祥子さんは、黒が似合いますね。肌が白いせいかな。あの夜も黒でしたね。」
田口さんはまるでシャンパンの味を評するように・・・わたくしの今日の装いを何気なく口にされたのです。
贅沢に空間のとられたディナーテーブルの中でも、二人が通されたのは二方をガラス面に囲まれたお席でした。

蛍火 3

ほとんどのテーブルが、向かい合ってお食事をするセッティングになっていました。
その中でこの席だけが、二人が夕暮れの庭を楽しめる様に隣り合って座るようになっていたのです。田口さんはわたくしの左手にお座りになっていました。
ふたりの周囲の席には他のお客様はいらっしゃいませんでした。月曜日というウィーク・デーの始まりの日だということも、ディナーが始まったばかりの少し早いお時間のせいもあるのでしょう。

「よく憶えてらっしゃいますね。」
半年も前の夜のことを口にされた田口さんに、少し驚いていました。
「今日はきっちり襟元まで隠してらっしゃいますが、あの時、祥子さんの白い背中を見た時は心臓が止まるかと思いましたよ。」
あの夜・・・アメリカンスリーブの、肩から背中・・・そして仄かに膨らみのわかるバストサイドまでがあらわにされたドレスを纏っておりました。今日のように・・・髪もアップにして。
「ふふふ お上手ですこと。」
わたくしは前菜のプレートを前にして、シェフの言葉を軽く躱してみたのです。
 
「前菜です。草生茄子と芝海老のゼリー寄せ ガスパチョソースでございます。」
サービスの男性が簡単にお料理の説明をしてくださいます。
その瞬間だけ、田口さんの顔がプロとしての表情を取り戻します。仕事への自信を感じさせる威厳に満ちた横顔がとても素敵です。
でも、今夜見せて下さる顔はそれだけではありませんでした。
サービスの男性が一礼をして去ると、1人の男性としての優しさに満ちた表情をわたくしに対して向けてくださるのです。
「いただきましょうか。」
田口さんはカトラリーを手になさいます。
「初夏らしい爽やかなお皿ですわね。」
茄子の歯触りと芝海老の美しい色合いと、ガスパチョの爽快な香りを活かしたソースの仕上がりが、シェフの確かな腕前を感じさせます。
 
「先ほどのサービスの男性はここのチーフなんです。私のことを知っていますから、きっと後でシェフが挨拶にきますよ。」
「お帰りになったはずの先輩がどうして、って?」
そう・・・あそこでお逢いしなければ、もう20分も前には二人とも帰路についていたはずなのですから。
「ははは、その言葉を今頃キッチンで言ってる頃でしょう。」
田口さんは目の前のシャンパンのグラスに手を伸ばされました。このお料理になら、まだワインよりはマムのすっきりとしたお味が似合います。
わたくしも、お食事というには少し早いペースでお酒を頂戴しておりました。

一皿目が終わる頃、田口さんがぽつりとおっしゃいました。
「逢わせたくないな、祥子さんには。」
「わたくしがご一緒なのはご迷惑でしたか?」
プライベートとはいえ、お仕事関係の後輩にあたるのです。
一度きりお店にうかがっただけのわたくしが、こんな風に親しげにしているのを知られるのはご都合が悪いのかもしれません。
そういえば、田口さんにご家庭があるのかも・・・わたくしはこの方個人的な事情を何も知りませんでした。

「こちらをご用意させていただきました。」
最初のお皿が下げられたところで、先ほどのサービスの男性が赤ワインのボトルを持っていらしたのです。
「いえいえ、迷惑なんかじゃないです。」
用意された赤ワインはオーストラリアのものだそうです。鮮やかにテイスティングをなさると、心配げなわたくしに顔の前で指を振って見せるのです。
「祥子さんは、彼の好みにぴったりだからですよ。祥子さんに逢わせたら、きっと後がうるさくて仕方ないにちがいない。」
あの年末のテーブルで田口さんに対して石塚さんがおっしゃったような言葉を、今度はこの方がおっしゃいます。
「もう、そんなこと。田口さんの後輩さんなのだから、お若いのでしょう。わたくしなんて、眼中にはないと思いますわ。」
こんなレストランのチーフシェフなのです。30代の後半くらいでしょう。
「彼は34だって言ってたかな。いやぁ、この世界は実績なので年齢には疎くて。ははは。」
「いいですわね、腕の世界。」
「その分厳しいですけれどね。」 目の前に田口さんが上げたグラスの中には、ルビー色に光るワインが揺れていました。
「今夜の祥子さんの姿はあの時ほどは刺激的じゃないけれど、首元まできっちり覆った姿も却って想像を掻き立てられるんです。」

蛍火 4

「田口さんたら。」
仔鴨胸肉のローストに、オーストラリア産の赤ワインはぴったりでした。
いま、わたくしが頬を火照らせているのは・・・絶対にワインのせい・・なのです。
「胸元の肌を隠しても、その髪をアップにした首筋を見れば雪白の肌を思い出させます。真珠よりも魅力的な曲線を描く肌。素敵でしたからね。」
首筋に無防備に揺れる後れ毛さえ、田口さんの記憶を刺激してしまっているのでしょうか。
「もう、恥ずかしいですわ。お忘れになってくださいな。」
あの夜、メインダイニングでわたくしが最後に晒してしまった姿を、この方は脳裏に描いているのでしょうか。こんな風にお食事をしながら。
手を伸ばせば触れられる隣の席に案内されたことに、最初わたくしは緊張しておりました。
でも、いまでは正面から田口さんの視線に正面から晒されない分だけ・・・ほっとしてしたのです。
 
三品目のお魚のプレートが運ばれてまいりました。
「ここのシェフは、私の好みの女性にいつも横恋慕してましたからね。あの石塚様や美貴様が夢中になるほどの・・・いえ、私自身が忘れられない祥子さんは、彼には目の毒の筈です。」
皿の上にはオマール海老が美味しそうに横たわっていました。
「この海老も美味しいですね。流石に田口さんの後輩さんですこと。」
グリルで味を凝縮した野菜が、ローストした海老の濃厚な味と上手にバランスをとっています。お料理の話へ話題を振る事で・・・少しでもわたくし自身のことからお話が逸らせればと願ったのです。
「相変わらず、いい腕です。彼は魚が得意なんですよ。」
まるで我が事のようにうれしそうにお話になるのです。
「そうなのですか。田口さんはお肉がお上手だから、お二人が一緒なら最高の贅沢ができそうですね。」
「ははは、確かにそうですね。そう言えば、前回は私の魚料理を召し上がっていただいてないんですね。この次いらしたときには、これに負けないくらいの魚料理をお出ししましょう。」
プロの負けん気とでもいうのでしょうか。
プライドを滲ませた田口さんの表情は男らしくて生き生きとして見えます。お仕事に充実されている男性は、本当に素敵です。
「楽しみですこと。でも、美貴さんはお忙しいみたいですからなかなかお伺いできないかもしれません。」 
「祥子さんでしたら、お1人でもお席をきちんと用意しておきます。個室がよろしければVIPルームをご用意しますし。」
ホテルのメインダイニングに相応しいあのVIPルームで、わたくしは4人の男性に責められた後の身繕いを・・・あの夜したのです。
「ふふふ、1人でうかがってVIPルームなんて申し訳ないわ。そっと、空いているお席でひっそり美味しく頂戴することにします。」
あまりに・・・淫らな記憶が未だに、あのメインダイニングを再び訪れる勇気を、わたくしに持たせてはくれなかったのです。
 
「最近は、美貴様達とはお逢いになってないのですか?」
「ええ、あれ以来どなたともお逢いしてないんですよ。田口さんのところにはいらしてるのでしょう。」
皆さんお忙しいのでしょう。
特にお誘いもないままに半年が過ぎていました。
あのバーに伺えば簡単にお逢いする事も出来たのでしょうけれど、敢えてお伺いすることもいたしませんでした。
「そうでしたか。ええ、美貴様と山崎様は時々いらしてくださいます。石塚様はお1人で一度だけいらしたでしょうか。なかなかゆっくりお席に伺えないのでお話することもできなくて。」
田口さんもきっとお忙しい日々を過ごしていらっしゃるのでしょう。
あれだけのお味をコンスタントに提供なさるのですから、お客様は引きも切らないはずです。
「祥子さんのことはずっと気になっていたのですけれど、あの方達に私からは切り出しにくくて。今日お逢い出来て本当によかったです。」
ははは、笑いながらワイングラスを空けられます。
「今日お逢いしたことをお話ししたら、あの方達に悔しがられるかもしれませんね。」
「ふふふ、そうだとよろしいのですけれど。」
美貴さん、山崎さん、石塚さん、そして望月さん。あの方達のことが懐かしく思い出されました。ウィットに富んだあの方達との会話を久しぶりに楽しみたくなりました。

蛍火 5

「牛リブロースのローストです。」
わたくしたちの前にメインディッシュが運ばれてきました。サービス・チーフは簡単にお料理の説明をすると、グラスにワインを満たしてゆきます。
「美味しそうですね。」
柔らかそうな霜降りのお肉と洋山葵のソースが、見事なコントラストを描いています。新鮮なグリーンサラダも届けられました。
「いただきましょう。」
田口さんは早速にナイフを手にとられたのです。
 
「先ほどシェフはお魚が得意だっておっしゃいましたけれど、お肉もお上手だわ。火の通し具合が絶品ですね。」
香ばしさとジューシーなお肉の味の共存は、あくまで<お魚の方が得意>なだけであることを、あきらかに示していたのです。
舌の上で牛特有の甘みを広げながら・・・蕩けてゆくローストされた牛肉の味は・・・官能的でさえありました。

「これは私見ですけれど、嗜好というのは一定の方向性を持つようですね。」
わたくしの心の中に芽生えた一言を、瞬時に読み取ったかのように・・・田口さんの視線に牡としての熱が宿りはじめていました。
「味の嗜好が極めて似ているということは、女性の好みが似ていることも多いのですよ。両方とも五感を駆使するものですから、当然といえば当然ですね、祥子さん。」
艶っぽいというわけではないはずなのに、田口さんの視線はわたくしの身体の芯を騒がせるのです。
「もう。田口さんたらそんなお話ばっかり。」
わたくしは彼に・・・こんな場だからこそなのですが・・・セクシャルな香りを漂わせる言葉を諌めるように、軽く眉をしかめさえしてみせたのです。
「私の作る料理に感じたのと同じテイストを、ここのシェフの皿に感じてらっしゃるのだとしたら、それは祥子さんが彼好みの女性だということなんですよ。」
逸らしたはずの話題に・・・わたくしは自ら田口さんを引き寄せてしまったようです。
「もう、またそのお話ですの。」
「デザートになればやってくるでしょう。私と一緒の祥子さんを見て、シェフが悔しそうな表情をするのが見物です。」
調理人の先輩として・・・いえ、男の先輩としてのシェフの優越感がそこには滲み出ていました。
「ふふふ、わたくしでは役不足だと思いますわ。」
田口さんは、一流ホテルのグランシェフなのです。
今日はわたくしと同席しているから、こうして気をつかってくださっているのでしょう。
いままでも女優さんやタレントさんなど、本当に素敵な女性とも数多く出逢われているはずですから。

「私は、味覚には忠実な男です。見事な味は自分自身の手で再現できるまで決して忘れる事なんて出来ません。同じ様に、一度お逢いした見事な女性のことも、再びお逢いしてこの手に抱きしめるまで、ずっと忘れることなんて出来ないものなんですよ。」
なんという告白なのでしょうか。
こんな風に・・・仰られたのはもしかしたら高梨さん以来かもしれません。
わたくしは、息を飲んでいるだけで、なんとお答えすべきなのか咄嗟には思いつくことなど出来ませんでした。
「いまも、そのパールを手で奪って祥子さんの手首を真珠の連なりで縛り上げたいと考えているんです。」
わたくしから眼を離すことなく、田口さんは手にした赤ワインのグラスを空けてゆきます。
「私の店ならば、私の作るメインディッシュと引き換えにその黒いトップスを取り上げるのに・・・と、妄想しています。」
そんな・・・お食事をしている席でこの方はそんなことを考えてらっしゃるなんて。
わたくしは思わず、カトラリーの動きを止めてしまいました。
「申し訳ありません。美貴様の想い人でもある祥子さんに、いまお話ししたような事が出来る訳はありません。私の戯れ言だと、忘れてください。」
 
年末のお席の石塚さんとは違って、田口さんはわたくしに指一本触れているわけではないのです。
なのにこの方は、一緒にお食事をしてお話をするだけで・・・ストッキングを破る以上の・・・エロティックなシチュエーションにわたくしを投げ入れたのです。