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蛍火 2

「なかなかシェフのところにお伺い出来なくて申し訳ございません。」
またぜひお越し下さい、とあの夜に言われながらもう半年以上が過ぎていたのです。
「ははは、ここでシェフでもないでしょう。田口です。祥子様はもうお忘れになりましたか?」
明るい・お腹の底から出てくるような笑い声も、あの時と同じでした。
「ごめんなさい、田口さん。お名前を忘れていたわけではありませんわ。それでしたらわたくしのことも、今日はあなたのお店のお客様でもないのですから<様>は抜きでお願いします。」
「そうでした。とはいえ、祥子、と呼び捨てにしたら美貴様達に怒られてしまいそうですから、今日は祥子さんと呼ばせていただきます。」
「ふふふ」
この方はそんなことまで憶えていてくださったようです。
たった一度お逢いした方。でも忘れることなんてできない方との久方の再開でした。
 
わたくしは、ロビーでひとり思案顔をしていた訳を、簡単にお話したのです。
「先ほど知り合いの方の還暦のお祝いが終わったところですの。こちらのお庭の蛍は有名でしょう。せっかくなら見てゆきたいと思って。田口さんはどうしてこちらに?今日はホテルの方はお休みですの?」
「ええ、月曜日なので休みなんです。このホテルのフレンチのシェフが後輩にあたるものですから、夏の繁忙期前にちょっと顔を見に来たんですよ。」
こちらのフレンチダイニングは、安定したお味と繊細なメニューで定評があります。シェフがこの方の後輩さんだとうかがえば、なるほど・・・と頷けます。
「もう御用はお済みになられたの?」
「ええ、彼とはランチの後の休憩時間にゆっくり話してきました。そろそろ帰ろうか、たまには蛍でも見ようかと思っていたところで祥子さんのことをお見かけしたんです。」
ちょうど夕方の6時すぎ。
夕暮れの気配がほんの少し忍び寄ったロビーは、真っすぐに帰宅することを躊躇わせるような空気が漂っていたのです。
「1人で蛍も味気ないと思いましたが、祥子さんが一緒なら別です。いかがですか?まず食事でもして、頃合いを見て蛍狩りでもしませんか?」
わたくしもお話をしながら同じことを考えておりました。田口さんをお誘いするのも・・・悪くない、と。
「ありがとうございます。それではお言葉に甘えて、ご一緒させていただきます。」
軽く頭を下げるわたくしの白い首筋に、田口さんの視線が注がれていたことに・・・その時は全く気付いてはおりませんでした。
 
「召し上がりたいものがありますか?今日のパーティではなにを召し上がったのですか?」
レストランの並ぶ方へと田口さんはゆっくりと歩いてゆきます。
「和食でしたの。でも、ガーデン・パーティでしたからとても軽い・・・先付けをオードブルにした感じのお料理でしたの。」
「庭の中の料亭にいらしたんですね。じゃ、ぜひ後輩の仕事を祥子さんの舌で批評してやってください。」
「批評なんて、いやですわ。田口さんたら」
シェフにエスコートされて席に着いたのは、庭に面したフレンチレストランだったのです。
「料理はまかせしていただいてよろしいですか?」
「ええ、好き嫌いはありませんから。」
「それでは、シーズン・ディナーを。それとおすすめの軽めの赤ワインをおねがいします。乾杯はシャンパンがいいな。最初に持ってきて下さい。」
てきぱきと、田口さんがオーダーをなさいます。
きっとつい先刻まで、後輩だというこのレストランのチーフシェフとコースのお料理のこともお話をされていたのでしょう。
どんなメニューか知らずに待つことも、お食事という場では楽しみが増すというものです。
 
「シャンパンでございます。」
わたくしたちの前に2つの細かい泡が立ち上るフルートグラスが用意されました。
「では、偶然の再会に乾杯。」「乾杯♪」
軽く目線に上げたグラス越しに視線を交わすと、はじける液体を喉へと流し込んだのです。
「おいしいわ。暑い時期にはこの爽快感がすてきね。」
口中にひろがる葡萄の香りはマムのように思えました。
「祥子さんは、黒が似合いますね。肌が白いせいかな。あの夜も黒でしたね。」
田口さんはまるでシャンパンの味を評するように・・・わたくしの今日の装いを何気なく口にされたのです。
贅沢に空間のとられたディナーテーブルの中でも、二人が通されたのは二方をガラス面に囲まれたお席でした。 コメント
失礼しました。あわてて「初雪」を読み直しました。
それにしても夏バテ知らずの祥子さん。泉が湧くように
言葉が溢れてきますね。

わが家のすぐそばの川は、今年たくさんの蛍が乱舞して
いました。のんびりした田舎です。

蛍狩りならぬ…ですか。

2006/08/09 21:55| URL | eromania  [Edit]
eromania様
「初雪」 田口さんが出てらっしゃるシーンだけでも結構な量がありますでしょう。読み直していただくなんて、思わぬお手間を掛けさせてしまいました。
ご自宅の側で蛍が楽しめるなんて、うらやましいですね。
そう・・・そんな蛍の景色の中での出来事です。
なんということのないはずの、お食事のシーンにさえ紛れ込むエロティックな空気を、いましばらくはお楽しみくださいませ。

2006/08/09 23:42| URL | 祥子  [Edit]
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