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第九 in the MOVIE 1

日比谷の街へ着いたのは、午後4時まであと少しといった時間でした。
冬至も過ぎ陽の落ちるのも遅くなったとはいえ、公園に残るわずかな紅葉を楽しむには日差しは物足りない時間帯でした。

毎年、誕生日には席を押さえて楽しむ<第九>。
今年は仕事に追われ、気づいた時にはいつものオケのチケットは完売していたのです。最初は他のオーケストラのコンサートを探そうかと思いました。
でも、クライアントへ向かう地下鉄の中である映画のポスターを見かけたのです。
<Copying Beerhoven/邦題:敬愛するベートーベン>でした。
『1万人の第九』を指揮する佐渡 裕氏のコメントまで加えられていたそのポスターに、わたくしは随分と気持ちをそそられてしまったのです。
初演の時と同じ構成で演奏される<第九>。フルで演奏すれば、上映時間中全てをこの演奏で埋めなければならないのでそれは無理でしょうけれど、合唱つきの第四楽章は充分に楽しめそうだったのです。
年末まで、まだいくつかプレゼンは続いていおりました。わたくしは映画という気軽な媒体で今年の第九を楽しむ事に決めて・・・ゆったりと28日を過ごすために気がかりな仕事をてきぱきとこなすことに専念することにしたのです。

日比谷公園から帝国ホテルの前を通って、宝塚の東京劇場へ左折。その先の小劇場型のシネマコンプレックスでその映画は上映されていました。
クリスマス時期ならともかく、年も押し迫ったこの時期にあまりお客様もいらっしゃらないだろう・・・。そう思っていたのは大きな間違いだったようです。
指定席を取る都合で、上映時間の40分前に1階の受付に行ったわたくしは220席ほどの劇場のいいお席はほとんど埋まっている事を聞かされたのです。
「前の方のお席と、一番後ろの両サイドでしたらございますが。」
チケットブースの女性にそう言われて、わたくしは一番後ろの左側の席をお願いしたのです。
指定席なら急ぐ事はありません。
向かいの専門店街のお気に入りのお店をウインドショッピングして、上映されている5階の劇場に入場したのは、開場の15分前でした。
一昨年も、27日ごろにこちらの劇場にうかがったことをロビーで前の回が終了するのを待ちながら思い出していました。あのときは、ハリウッドで一世を風靡したミュージカルの作曲者の方と奥様の生涯を描いた物語でした。同じ様に待っているお客様の年齢が、想像以上に高かったのです。
今年は、たしかにあのときと同じような趣味人風の大人のお客様も多かったのですが、同時に若いカップルも随分見かけました。それも手に手に・・楽器ケースのようなものを持っている方も少なくはありません。
そんな方達が決まって口にするのが「のだめでね・・・」という言葉でした。
そう、コミックスの原作をドラマ化された『のだめカンタービレ』の影響なのでしょう。たった1作のドラマが、こんなにも来場者の層を変えるのかとちょっとびっくりしていた時でした。

「失礼します。祥子さんですよね。」
エレベーターから流れてきたお客様の一人がわたくしに声を掛けられたのです。
ヒールのショートブーツを履いたわたくしとほとんど同じ目線に、半白の髪と、ブラックメタリックの眼鏡と、キャメルのピーコート姿の男性が立っていました。
「仲畑さん?」
「ああ、そうです。覚えていてくれましたか。」
今年の夏。やはり映画館でお逢いしたその方は良く通る丸くて柔らかい声で微笑むようにお返事を返してくださったのです。
「その節は・・・」
「いえいえ、あのときのことは言いっこなしです。」
随分と年上の方のはずなのに優しい少しはにかむような微笑みも、記憶のままでした。
「また映画館でお逢い出来ましたね。」
「はい。まさか、この間みたいに隣の席っていう偶然はないでしょうね。」
「わたくしは、このお席ですわ。」
「どれ・・・。」
列は同じでした。でも座席番号はそれぞれ右と左の端を示していたのです。

第九 in the MOVIE 2

「ははは、やっぱりあんな偶然はないんですね。」
「ふふふ、そうですね。」
「祥子さん、今夜この後の予定はなにかあるんですか?」
「いいえ。特に決まってはいませんの。今日はわたくしのお誕生日なので、どこかでお食事をして帰ろうと思っておりました。」
「そうなんですか。」
仲畑さんは、少しだけ考える様にされたあとでこうおっしゃったのです。
「私でよかったら、お祝いをさせてください。映画が終わった後、そうですね・・・この映画館の前の広場のゴジラの前ではどうですか?」
ふふふ。入れ替えのための人でごった返す映画館の中や、最終回で並ぶ入り口ではなくこんな場所を選ぶなんて、流石に映画関係者のお1人だとわたくしはつい心の中で微笑んでしまったのです。
「あっ。解りませんか?ゴジラ。」
「いいえ、解りますわ。あのスターの手形がならぶ広場にあるゴジラの銅像の前ですね。」
「はい。そうです。それじゃ、後ほど。」
前の回の上映が終わり、ほぼ満席だったお客様が一気にロビーに出てらしたのです。
人波に、仲畑さんは入場待ちの後ろの列へ回ってゆかれました。

今夜は、第九に合わせて白のシルクのブラウスに黒のロングスカートを合わせていました。映画を見て、お食事をいただいて・・・暖かな場所を移動するだけでしたので、ブラウスの上にはカシミアの黒のストールと刈毛ミンクの黒のテーラードカラーのロングコートを着ておりました。足元は黒のショートブーツ。
深く後中心に入ったスリットを意識して、ストッキングはシーム入りの黒のものを、パールホワイトのサテンのスリーインワンで吊って、ショーツは同じ素材のハイレグのラインの目立たないものを選びました。
装う前に鏡の前で見たまるで花嫁のためのようなランジェリーは、黒のシーム入りのストッキングのせいでその清楚さを僅かに損なっているようでした。
まさか、仲畑さんとご一緒することになるとは夢にも思っておりませんでした。
もし、この姿をお見せすることになってしまったら・・・がっかりなさるかしら、と考えているわたくしがおりました。
この前にお逢いした夜は・・・わたくしが普通の状態ではありませんでした。泣きじゃくるわたくしを慰める為に、仲畑さんはわたくしと一夜を過ごしてくださったのです。
今夜の出逢いも偶然でした。
映画が終われば19:00近く。
お食事をご一緒して・・・その後・・・。
ふっ・・と会場の明かりが落ちて、わたくしは意識をはじまったばかりの映画に戻したのです。

地味に、淡々と・・・それでもベートーベンの生きた1800年代に、女性の持つ能力や才能を認め・側におかずに居られなかった人間としてのベートーベンの苦悩と、野獣と言われる彼を理解してその才能を尊敬し・惹かれずにはいられなかったアンナ・ホルツが描かれた映画でした。
23歳の女性が倍に近い年齢の男性に傾倒してゆく様・・・身体を交わしはしないのですが、重ねられる日常が二人の関係を示しておりました。
第九の演奏は、物語の中盤だったでしょうか。
予想通り第四楽章だけでしたが、第九の持つ聖なるイメージだけではない新たな物語を感じさせるシーンが印象的でした。

最終回ではありませんでしたから、どのお客様もあわてて席を立たれたのです。
わたくしは、映画館の反対の端に座っているはずの仲畑さんを目で探したのですが、見つける事ができませんでした。
待ち合わせは屋外だったのです。お待たせしてはいけないと・・・わたくしはエレベーターを待たずに、階段をつかって映画館を出たのです。

ゴジラの前には仲畑さんはまだいらしておりませんでした。
三々五々映画館から近隣の劇場へと向かう人波をコートの襟を掻き寄せて見つめておりました。
一人の贅沢な夕食も、それはそれでわたくしの大好きな時間でした。
でも、せっかくの一日。ご一緒に祝ってくださる方のいる幸せを・・・わたくしはしみじみと感じていたのです。

第九 in the MOVIE 3

「待たせたね。」
映画館のほうから、独特の仲畑さんの声がいたしました。
さすがに声優さんです。多くのひとが会話を交わす中でもひときわ耳を捕らえます。
「いいえ、わたくしも少し前に降りて来たところです。」
「よかった。お腹も空きましたね。さ、行きましょう。」
隣に寄り添う仲畑さんは、わたくしを銀座方面ではなく日比谷へとエスコートされるのです。
「どちらへ?」
「急だったので、ありきたりのところしか予約できなかったんですよ。」
照れた様におっしゃる仲畑さんがわたくしを連れて行ってくださったのは、帝国ホテル本館中二階にある和食レストランでした。
「いらっしゃいませ。」
「先ほど予約した仲畑だけど。」
「お待ちしておりました。」
サービスの女性はわたくしと、仲畑さんのコートを預かってくださると席へと案内してくださいました。
和食とはいっても、シルバーとブラックで整えられたシックな内装です。
お正月にむけて飾られた<和>のオーナメントが鮮やかなアクセントになっています。

「飲み物は、シャンパンでいいかな?」
「はい。」
この方と以前お逢いしたときは、わたくしの気持ちを宥める為にと白のワインをお付き合いくださったのです。
あまりにショッキングにはじまった間柄によく考えれば、互いの好みさえよくわかっていないことに気づきました。
「ご用意しているのは、パイパーエドシックですがよろしいですか?」
「はい。グラスで。あとは、お料理に合わせて考えましょう。」
「承りました。」
テーブルは、窓際のお席でした。4つの椅子のうち隣り合う2つに腰掛けて、窓外の日比谷の人の流れを見る事ができました。
「祥子さんにぴったりなシャンパンでよかった。」
「そうなんですの?わたくしは、あまりまだいただいたことのないシャンパンなんです。」
「日本ではあまりポピュラーじゃないかもしれないね。実はね、マリリンモンローが愛飲していたと言われるシャンパンなんだ。」
「ふふふ。素敵ね。」
「今夜はモンローよりも魅力的な祥子さんと飲めるんだから、ぴったりだよ。」
「お世辞が過ぎますわ。」
あまりに大げさなお世辞には、もう笑って済ませるしかありません。
メニューをご覧になりながら、わたくしを見上げる仲畑さんを目線だけで軽く睨みます。
それを解っていらしてさらっと交わす仲畑さんに、大人の余裕と優しさが漂います。

「お決まりになりましたか?」
2つのグラスを並べたサービスの男性が下がると、最初に案内してくださった方がオーダーをとりにいらっしゃいます。
「華のコースにしましょう。今日は彼女の誕生日なんですよ。」
「おめでとうございます。」
「ありがとう。」
ホテルマンらしい華やかな笑顔の一言に、わたくしも思わず嬉しくなってしまいます。

第九 in the MOVIE 4

「お料理でございますが、メインをお選びいただけますでしょうか。」
「そうだな、祥子さんはどうしますか?」
「お肉も捨てがたいのですが、北寄貝も美味しそうですね。」
「ええ、今日はいい貝がはいっておりますので、おすすめです。」
「それでは、Bで。」
「はい。お食事はご飯とお蕎麦のどちらになさいますか?」
「夢ごこちの新米がいただきたいわ。」
「それじゃ、そちらにしましょう。」
「デザートは、4つからお選びください。」
「和栗かな。」「わたくしも。」
「ありがとうございます。それではアミューズからご用意させていただきます。」
カウンター越しに見えるセミオープンになったキッチンに、オーダーを取って下さった女性が下がってゆかれます。

背筋の伸びた黒のジャケットとタイトスカートの背中には、お正月まえの静かなひと時でもピーク時と変わらない緊張感を保っているようでした。
わたくしの視線を追っていらしたのでしょうか。
仲畑さんに向き直ったところで、彼はにっこりと微笑んでグラスを取り上げてくださったのです。
「お誕生日おめでとう。」
「ありがとうございます。」
「こんな日に祥子さんに再会できるなんて、私は神様に愛されているな。」
「ふふふ。さぁ、どんな神様なのでしょうね。」
笑っているうちにアミューズが、そして前菜が届けられます。酒盗の和え物に白胡麻豆腐の生雲丹添え。なだ万らしい繊細で美しいお料理です。
いただきます、とわたくしは両手を合わせて箸を取り上げました。
白胡麻でつくられた葛寄せ豆腐はなめらかで、豊かな香りがいたしました。
おいしい、一口目で、わたくしはその香りに思わず微笑んでしまいました。

「聞いていいかな。幾つになったんですか?」
「はい、44歳になりました。」
「いい年齢だね。ほんとうに、いい年の取り方をしている。」
「はずかしいですわ。そうですか?」
「ああ。年齢を聞かれて、祥子さんは躊躇わずに口にしたね。」
「ええ、だって本当の年齢だもの。」
「実はね、多くの女性はその<本当>を言いたがらない。」
「若く見られたいから?でしたらわたくしもそうですわ。」
冷菜です、と届けられたお造りも本鮪の豊かな味わいが見事でした。
「若く見られたい、若くありたい・・・っていうことはいい事だと思っているんですよ。でも、それは年齢を詐称するのと意味が違う。私はね、自分の年齢をありのままに口に出来ないのは<今の自分を認めてない>んだと思うんです。」
「認めてない?」
「そう、いま眼の前にあるこの自分しかないはずなのに、それを認めないでどこか他にある別の自分ばかりを探してる。若くて夢想している年代ならともかく、年齢を重ねてきちんと自分と向き合わなくてはならない大人になっても、まだ<ここにはない何か>ばかりを探している女性を見ると、がっかりする。」
そうでした。この方は、女性に対して辛辣な面があったのだということを思い出しました。でもその辛辣さは、苦いばかりではないのです。きちんと理の通ったお話はわたくしも学ぶところの多いお話でした。

第九 in the MOVIE 5

温物はずわい蟹のニョッキでした。ブルーチーズのソースは、和食というよりはフレンチのテイストを感じさせる出来です。2杯目をお願いしたシャンパンにもぴったりの風味です。
再会すると、早急にベッドに誘い肌を交わすことで相手を思い出させようとされる方も少なくはありません。でも、こうして会話で仲畑さんのフォルムを思い出させてくださる・・・そんなこの方の暖かさを、わたくしはお料理とともに噛みしめておりました。
「祥子さんは、いまのあなたがどうあれちゃんと自分を認めている。年齢などというものは単なる記号の1つで、私は私だとちゃんと示せるだけの自分を持っている。だから、なんのこだわりもなく私の質問に答えられるんです。素晴らしい。」
「ありがとうございます。そう言っていただけるだけでうれしいですわ。」
口直しの甘海老のスープ蒸しをいただきながら、微笑み返しました。決して意識してしていたことではないのですが、言われてみれば仲畑さんのおっしゃる通りなのです。

「でも、誕生日に祥子さんを一人にするなんて、新しい恋人は一体どんな男性なんだい?」
メインディッシュが並べられたところで、仲畑さんは思わぬことを口になさいました。
「えっ、恋人?」
「祥子さんのことだ。もう恋人の一人や二人いるんだろう?」
「いいえ、おりませんわ。」
わたくしはきっぱりとお返事をいたしました。
あんなに沢山の男性と肌を重ねておきながら・・・あまりに不誠実な答えでしたでしょうか。
それでも、わたくしには・・・。
「恋愛に臆病になったかな?それとも男嫌いにでも? あまりにもったいないがね。」
ふるふると・・・わたくしは首を横に振りました。
「言いよる男がいないわけじゃないでしょう。」
「ええ。」
「祥子さんのお眼鏡に叶わないレベルの男ばかりか?」
「いいえ。皆さん素敵な方ばかりですわ。」
「それでも?」
今度はわたくしは首を縦に振ったのです。
仲畑さんはとても不思議そうな表情をなさいました。
多分・・・そうなのでしょう。さきほど仲畑さんがおっしゃったように、いまのわたくしは恋人もいない淋しげな様子など微塵もなかったからでしょう。
「祥子さんは、嫌いな気に入らない男に肌を許すような女ではないしね。」
「いえ、どなたも本当に素敵な方なんです。好きな方達ばかりです。ご一緒しても刺激的で・・・わたくしにはもったいないくらいなんです。でも、まだ・・・」
「あの彼ほどは愛せない、か。」
こくん。わたくしは素直に頷いたのです。
「どうしてなのかわかりません。でも、気持ちがまだ動かなくて。」
「ん~~。」

「お味はいかがですか?」
難しそうな顔で首を傾げる仲畑さんに、熱いお茶を持って来てくださったサービスの女性が問いかけます。メインが出てからの話題に渋い表情をつづける彼に、お料理の味が悪いのかと・・・心配したようでした。
「美味しいですわ。北寄貝をこんな風にいただくのははじめてです。」
「ああ、いい味だね。この時期は北の食材が本当に美味しい。」
「ありがとうございます。この後御食事のご用意になりますが。」
「はい。お願いします。」
メインのお料理もそろそろ終わりになっていました。
「ご用意させていただきます。どうぞごゆっくり。」
サービスの女性に余計な心配を掛けていたのでしょう。ほっとした顔で厨房へゆく彼女に心の中で・・・ごめんなさい・・と呟きました。