紫の影
待ち合わせは社家の中にあるカフェでした初夏の陽射しの注ぐガラス張りのお席でいただく珈琲は
いつもより深い煎りのもの
クリームとシュガーをほんの少し加えて
この街ならではの味を楽しむことにしました
「お待たせしましたね」
ゆったりと会釈をして
向かいの席に腰を下ろしたのは二人の男性
一人はカジュアルなジャケットスタイルですが
お若い一人の方は揃いの羽織の着物姿
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「そう言えばこちらの神社で今日は神事がありましたね」
「ええ、父の替わりに出席していました。
そのせいで待ち合わせが遅くなって申し訳ありません」
着物姿の望月さんは袖口を押さえながら
クリームポットに手を伸ばすと
漆黒の中に白く一筋をしたたらせてゆきます
「かまわないのよ。こんなに朝ゆっくりしたのは久しぶりだから」
美貴さんもやはり普段はめったに手を出さない
砂糖壷に手をかけていました
「いつも早起きですからね祥子さんは」
「ふふふ 美貴さんがおねぼうさんなだけです」
珍しく2つもシュガーを入れた美貴さんは
想像よりも甘い珈琲に口元をわずかに歪めた
「わかりました 明日も絶対に祥子さんに寝坊をさせてあげます」
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「ふふふ まだこんな時間ですのに」
土壁にしだれる能舞台のような影向松に
やっと高くなった陽が葉を白く照らす
「一服されたら早いうちに行きませんか」
「ああそうだな かきつばたは早い時間がきれいだからな」
「いつもならまだ早いのではないの?」
この時期はまだほとんどがつぼみだった記憶の方が多いのです
「今年は珍しく早いみたいですよ」
シンプルな町家の中で
新鮮に見える白と黒のバリスタスタイルの女性が微笑んでいました
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさま もう九分咲きらしいですね」
「ええ ほんとうにいつもより1週間早いですね
これからおいでになるのですか?」
「はい」
「いってらっしゃいませ」
着物の立ち姿と同じりんと背筋を伸ばして見送って下さいました
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「以前にもいらしたことがあるのですか?」
「ええ こんなに近くなのに随分道に迷ったけど」
「珍しいですね 祥子さんが迷子になるなんて」
歩く傍らを流れる水音も陽射しの下では涼しげに聞こえます
「このお休みの最後のころにくるのだけれど
いつもつぼみばかりで
でも3つ4つ咲いている初花が清々しくて
蜻蛉がつぼみに止まっている様子も可愛くて好きなの」
「さほど大きくはない場所ですが、たしかに異空間ですよね」
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入り口の育成協力金に美貴さんが3人分を入れて
国の天然記念物というかきつばたの沼の縁へと進みました
「もう二番花、三番花が咲いていますね」
一面のかきつばたの中には
もう昨日一昨日に花期を終えたものも含まれていました
「こちらは花殻を摘みませんから」
「この姿が切ないですね」
この街の庭園には様々なものがあります
こちらのように自然のままにされるところも
花がおわった後の花殻を毎日きちんと摘まれるところも
「つぼみも花殻も盛りの花も花なのですけれどね
わがままなのは人の方かもしれません」
そうつぶやいたわたくしの肩を
優しく抱いてくださったのは美貴さんでした
「祥子さんの花殻なら僕がいつでも摘んであげるよ」
「ありがとうございます」
彼を振り仰いだ耳元に
もう一つの声がささやいたのです
「祥子さんはまだ花の盛りです
枯れたりしません」
背中の着物姿から伝わる熱が
肩に触れる手より力強く感じるのです
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「昨日はどうされていたのですか?」
「大江までいってまいりました」
「また遠くまで」
「つつじが綺麗でしたわ」
元と同じ道を美貴さんに片手を預けて車まで戻る
「それじゃあそろそろ川床に向かうか」
「はい」
「また遠くまで」
「この時期ならまだ静かだからね」
この姿ならまだ涼しいかもしれないけれど
二人と一緒なら大丈夫かもしれないわ
わたくしは青紅葉の涼やかな川床を思い浮かべました
花の寺
長い初夏のお休み本当ならもう少し早くいただいて
数年ぶりに開花したという藤の花を拝見する予定でした
気候のせいか、お仕事のせいか
気がつけばもうお花も終わり
そこで普段は訪れることのない
北へと一人向かったのです
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田植えの終わったばかりの水田がまばゆい山間に
その花の寺はありました
白い花房が清々しい藤
花期の難しいこの花を見たのは久しぶりです
苔むした山門の手前には
葉桜となった見事な枝垂が・・・
ひと月前ならきっとあの神社と同じ
あでやかな紅色を見せてくれていたに違いありません
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「あら・・・まぁ なんて」
「見事なもんですね」
山門をくぐった先の
景色を見上げて絶句したわたくしの隣で
制帽を持ち上げて賛同してくださったのは
最寄の駅に到着してからその先の交通手段が全くないと知り
急遽お願いしたタクシーの運転手さん
「私もめったにこちらには来ないもので
いやぁお客さんのおかげでいいものを見せてもらいました」
「お参りしてきますので少し待っていてください」
ゆっくりと花に囲まれた石段を上ってゆく
明日いつもの街で久しぶりに美貴さんとお逢いする
桜の最後の一日に起きたことは
わたくしには何の変化も起こしていないはず
あの方達とお逢いする場に偶然いらしたりなさらなければ
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境内にはほとんど人影はない
訪れる車はほとんど地元No.
市内から2時間程度の距離にある
見事な花の寺はわたくしの心を優しくいやしてゆく
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