蛍火 7
「この後はどうなさるんですか?」お料理の好みを聞く様に、杉山シェフが田口さんに問いかけます。
視線の先の庭園はすっかり宵闇に沈んでおりました。ところどころに設置された灯籠が、昼間見た回遊路をやさしく照らしているようです。
「お席を変えられるのでしたら、バーカウンターを予約いたしますが。」
流石に気が利くところは、田口さんの後輩です。
「いえ、美味しいワインを頂戴しているので、お酒はもう。せっかくなので蛍のお庭を楽しませていただきますわ。」
「そうですね。なかなか見事ですから、ぜひいらしてください。私達従業員は蛍が綺麗な時間は忙しいものですから、つい見そびれていて。恥ずかしながら、紺屋の白袴って感じです。」
どうぞ、ごゆっくりなさってください・・・呼びにきたサービス・チーフに耳打ちされて、杉山さんはキッチンに戻って行かれました。
フレンチ・ローストの珈琲がコースの最後を心地良く締めてくれたのです。
「さぁ、蛍を観に行きましょう。」
田口さんがわたくしの椅子を引いてくださいます。
そうでした。蛍の仄かな明かりが美しく見える時間まで・・・と、お食事を誘っていただいていたのでした。
ゆったりとご一緒した美味しい御食事で、わたくしは半ば満足していたのです。
それに、一つ気がかりがあったのです。
「田口さん、あの・・・お宅はよろしいんですか。せっかくのお休みですのに、ご家族がお待ちになってらっしゃるんじゃありませんの?」
2万坪と言われる庭園の一部とはいえこれから散歩をしようと言うのです。まだ1時間ほどはお時間をいただくことになるでしょう。
「美貴様から何もお聞きではないんですか?」
「ごめんなさい、なにも。」
実際のところ、美貴さん達と田口さんがどれほど親しいのかは、わたくしにはわかりませんでした。
ただ、あの場に・・・とてもプライベートなはずの・・・わたくしとの淫媚な場に田口さんを招き入れたのです。
秘密を共有できるほどの関係だということくらいはわかりました。
「私は独りなんですよ。5年前に離婚しましてね。いまは気ままな一人暮らしです。」
「そうでしたの。申し訳ありません、立ち入ったことをお聞きして。」
「いえいえ、これで安心して蛍の庭へエスコートさせてくださいますか?」
「ええ、それでしたらご一緒させていただきますわ。」
わたくしは差し出された田口さんの左腕に軽く手を添えると、お庭へ向かう扉の外へと歩き出していたのです。
庭園に向かう扉を開けたとたん、湿度の高い空気がむっと押し寄せて参りました。夕方に庭園から出てきた時とは格段の差がありました。
お食事をしていた1時間ほどの間に、天候が少しかわっていたのかもしれません。雨が落ちてくる気配はありませんでしたが、月の姿も全く見えなくなっていたのです。
星もない真っ暗な空は、庭園内の足許を照らす灯りさえ薄く霞ませているようです。
気をつけて、ゆっくりと歩みを進めてくださる田口さんのコットン・ジャケットの袖を掴むようにわたくしは腕を絡めておりました。
「あっ・・ほたる・・・」
眼の前をほのかに緑がかった光が・・・1つよぎりました。わたくしは、思わず田口さんの袖を引いてしまったのです。
「どれ?」
最初の蛍火は、田口さんの視線が捉える前にふっと消えてしまいます。
「・・っ・・また・・・」
一つ・・またひとつ。文字通りの蛍光色の筆が雅な仮名文字を描くかの様に動くと・・・ふっと消えてゆくのです。
「きれい・・・」
ため息のように漏らした一言に、田口さんは年端も行かない子供に対する様にやさしく微笑んでくださったのです。
「三重塔から回ろうと思いましたが、気が変わりました。池のほとりの方から歩きましょう。」
分岐した回遊路を、田口さんはまっすぐに歩き出したのです。
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やはり本日2度目の更新…予想通り(笑)。
蛍がお二人の心に「恋心」という灯をともして、
やがてその灯が大きく熱く燃え上がると…。
2006/08/13 19:40| URL | eromania [Edit] -
eromania様
ありがとうございます。
待っていてくださったのですね。
こんな長期休暇の時期ですから、もう一つお話と、それからアンケートをアップしてみました。
後ほどアンケートにもご参加くださいませ♪
二人の間に燃えるのが、恋心なのか・・それとも他のものなのか・・・。
それをご存知なのは蛍の神様だけかもしれませんわ。
2006/08/13 19:56| URL | 祥子 [Edit]
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