銀幕の向こう側 6
気持ちが落ち着いたことで、わたくしは生理的欲求にとらわれました。映画を見はじめてからもう3時間以上・・・化粧室へはいってなかったのですから。
お酒をいただきはじめてから席を立つ事がないように、わたくしは用を足していくことにしたのです。
ゃぁっ・・・ 黒のレースに縁取られた藤色のサテンのTバックは、クロッチが・・・濡れた様に色が変わっていたのです。
誰に見られている訳でもないのに・・・わたくしは真っ赤になってしまいました。手近のペーパーでそのぬめりを帯びた部分を一生懸命に拭おうとしたのです。
こんな風になる心当たりは・・・一つしかありません。わたくしがかつて愛した方の姿を見たせいです。
あれほどに手痛い裏切りを受けても、この身体はまだあの方を愛している。
そう思った途端に新たな悲しみが押し寄せてきたのです。
ピンポン・・・ わたくしの涙を止めたのは、ドア越しに聞こえたルームサービスの押すドアホンの音でした。
ビデを使い、わたくしの身体に残っていたはしたない痕跡を洗い流してから部屋へと戻ったのです。
「私も白ワインを飲むことにしました。」
窓際の一人掛けソファーに座った男性は、ルームサービスのスタッフが抜栓するのを待っていらっしゃるところでした。
「お待たせして申し訳ありません。」
向かい合わせのソファーに座ります。
二人の間のテーブルの上には、生ハム・チーズ・オリーブにドライフルーツが程よく盛り合わせられたオードブルプレートが用意されていました。
「テイスティングはいかがしましょう。」
「私がしよう。」
男性がグラスを眼顔で示します。
コッック・・コッック・・・ ほのかに黄色味を帯びた美しい液体がほんの少しだけ注がれます。迷いなくステムを持つと、男性は唇から舌に・・・ゆっくりとワインを流し込みました。
「おいしいよ。ありがとう。」
男性のその声に一礼すると、スタッフはわたくしに・・・そして男性のグラスにもワインを満たすと、シルバーのアイスペールにボトルを入れナフキンで覆いました。
「サインをお願いします。」
すらすらと慣れた様子で男性はサインをします。
「召し上がられたものはこのままになさっておいてください。」
「ありがとう。」「遅くに申し訳ありません。」
改めて礼をして出てゆくスタッフの後ろ姿を、ソファーに座ったままで見送ったのです。
「それじゃ、改めて。はじめまして。」
「ふふふ、そうでしたね。」
わたくしたちは軽くワイングラスを合わせました。
「泣くとお腹が空くでしょう。」
「ええ、そうですね。」
泣き顔を誰かにみられてしまった恥ずかしさと決まりの悪さを、前面にだしてもしかたないでしょう。
わたくしはさらりと受け流して、男性が優しく差し出したナフキンを手に取りました。
「遠慮なくいただきますわ。」
取り分けてくださったお皿を頂戴し、ナチュラルなままのオリーブを口にします。滋味のあるまぁるく柔らかい塩味が・・・さきほどまでのわたくしの涙の味のようでした。
二人の会話は、テーブルの上のお料理とワインと・・・映画の感想の間を行き来していました。
ことに、この男性のジョルジュ・バタイユに対する見識の深さは見事なものでした。加えてご一緒に見た映画の監督が手がけられた別の作品・・・についての様々なことも、興味深く耳を傾けるに値するものだったことに、軽い驚きさえ憶えたのです。
わたくしはさしてフランス映画に造詣が深い訳ではなかったので、登場人物が身に纏っていたドレスのお話をさせていただきました。
バレンシアガ・・・ディオール。
綺羅星のごときメゾンが作り出す・・・ぎりぎりまで肌を露出し・覆い隠す・・・セクシュアルな夜の服のお話は、男性の男性の興味を惹いた様でした。
「あの服ってランジェリーは着けないものなの?」
そんな、日本の男性ならではの質問にお答えするのも楽しかったのです。
銀幕の向こう側 7
「これはハモン・イベリコのようですね。独特の香りがする。」互いに2杯目のワインを楽しみながら、生ハムをゆっくりと味わった男性はそうおっしゃいました。
「一緒に頂くと味わい深くなりますね。」
男性の眼を見つめて、彼と同じものを口にしてみました。
映画のお話は、興味深く楽しかったのですが・・・同時に、わたくしの目の前に寄り添っていたあの方と奥様の残像をフラッシュバックさせていたからです。
瞬間的に襲っては消える心の痛みから逃れたくて、男性の映画論をワインへと意識的に逸らそうと試みました。
「ワインのセレクトはあなたが?」
「いえ、ソムリエに任せました。白で、この料理に合うものをって言ってね。フランスの白だそうですよ。」
なるほど、たしかにこのしっかりしたボディはフランスワインならではの特徴かもしれません。
「気に入ってくれましたか?」
「はい。こんなにしっかりした白は久しぶりです。」
「よかった。私もワインは好きですが、もっぱら赤なのでね、白には疎いんです。」
「でしたら・・・そう言って下さったら赤でもお付き合いしましたのに。」
男性でワインをお食事と一緒にではなくこんな風に楽しまれる方を、わたくしはあまり多く知りません。好きなお酒を聞かれた時、てっきりこの方はウイスキーかスピリッツでも召し上がるものだと思っていたのです。
「君が白ワインを選んだのには訳があるのだろう。今夜は君のために過ごすと決めているからね、構わないよ。こうでもなければ白ワインをじっくり楽しむこともなかったろうから、いい機会だよ。」
笑って2杯目のグラスを干されるのです。
わたくしはシルバーのワインクーラーに手を伸ばして、男性にワインをお注ぎしようとしました。
「大丈夫だよ。ゆっくり飲んでいてください。」
男性は、わたくしを制して立ち上がるとナフキンを取り上げます。先ほどと同じに優雅な仕草でご自分と、わたくしのグラスにワインを注ぎます。
「今夜の訳を聞いてあげた方がいいのかな。それともこのまま関係のない話をして気を紛らわせるほうがいい?」
ソファに腰を下ろされるなり、わたくしの眼をみてそうおっしゃったのです。
わたくしは、すぐには答える事ができませんでした。
目の前の満たされたグラスを手に・・・ワインを頂くのには無作法なことなのですが・・・一気にグラスの中身を飲み干したのです。
このまま過ごしても、あのフラッシュバックはこれから先わたくしを苛み続けることでしょう。それなら、この男性が聞いてくださるなら・・・いま解決してしまうほうがきっといい・・・そう思えたのです。
「聞いていただけますか?」
テーブルに戻したグラスに4杯目のワインが注がれる時には、わたくしはもう心を決めていました。
以前愛して・裏切られた男性が偶然にあの映画館にいらしたこと。
隣に座ってらした女性は恐らくわたくしを捨てて結婚された奥様であること。
その方と出逢ったいきさつと、その方をどんな風に愛していたかということ。
その方にどんな風に愛されたかということも。
わたくしは、時にグラスを口元に運びながら淡々とお話を続けました。
もう枯れてしまったと思った涙が、また溢れ出し・・・ひとすじ・ふたすじ・・・頬をつたいました。
それでも涙を拭う事なく話し続けるわたくしに、男性は軽く相づちを打っては先を促してくださったのです。
銀幕の向こう側 8
「そんな風に綺麗に泣けるのは、哀しいね。」ボトルの最後に残ったワインをご自分のグラスに注いで、目の前の男性はぽつりとそう呟きました。
「最初、君が泣いているなんて全く気付かなかった。映画に夢中になっていたせいもあってね。」
男性が水滴のついたチェイサーのグラスを取り上げます。きっとワインで奢った口を潤すためでしょう。それほどまでに、今夜の白ワインには独特のコクがありました。
「でも、母親が息子の元を去るシーンで私の視界にはいった君の視線がね、まっすぐ画面を見ている人のものじゃないことに気付いてしまったんだ。それで気になって見つめていたら、君はいまと同じ様に、綺麗なままで泣いていた。」
その手の中のグラスをテーブルに戻す事なく、男性は話を続けました。
「はらはらと・・・花が散る様に落ちる涙を、私ははじめて見るような気がする。声も無く、でも涙が止まらないなんて、この女性はどれだけ哀しみを抑え込んでいたのだろうと思うと眼を離せなくなった。」
自分でも説明のつかない気持ちを、目の前の初対面の男性が次々に言葉に変換してゆくのです。
そのことに、わたくしは戸惑いと安らぎを感じはじめていました。
「もっと若かったなら、もっと愚かだったなら、君はこんなに哀しまずに済んだだろう。取り乱し・相手の女性を・裏切った男性を罵倒して、今頃はもう遥か過去のことのように今夜の出来事にも対処できていたと思うよ。」
はらり・・・ その言葉にわたくしの眦からはまた涙が溢れ出したのです。
「今夜の映画の若いヒロインのように、私を打ってみないか?」
「えっ」
チェイサーのグラスを置いた男性の突然の申し出を、わたくしは思わず聞き返してしまいました。
「憶えてないか? 息子のために母親が置いて行った若い恋人。その彼女は息子に乞われるままに、彼の母親に教えられたサディスティックな行為を幼なじみの給仕の男の子に加えるシーンだ。」
憶えていました。華奢で聡明そうな金髪の女性が、去って行った母親の正体を知ろうとする愛しはじめた男性の要求に応えて、幼なじみを拘束し・・・二つ折りにした革ベルトで打ち据えるシーンのことです。
「もう、時間を逆行させることはできない。後悔も君には似合わない。だから、今夜ここで哀しみを全て吐出してゆきなさい。」
ソファーから立ち上がった男性は、ベッドの上に置いた彼のバッグから黒革の房鞭とシルクのスカーフを取り出したのです。
「打ち方は知っているね。自分で打ったことはなくても、打たれたことはあるはずだ。」
房鞭を、男性はわたくしの膝の上に置いたのです。
「今日の映画を見ている君の表情でわかったよ。ノーマルな通り一遍の行為しかしらない人間にはあの映画は過激すぎるし、本当の意味も解りはしない。」
ブラウンのストライプが走るシャツのカフスの釦を男性は外しはじめたのです。
「涙を流しながら、スクリーンを見つめる君の表情と、先ほどまでの話で私は確信した。君は、こちらの世界の住人だ。」
シャツの第二釦に手が掛かりました。わたくしをみつめたまま、男性は順に釦を外してゆきます。開いた胸元からは、滑らかな・・・男の肌が現れました。
「気が済むまで、私を打ってごらん。さぁ」
シャツを座ってらしたソファーの上に置かれると、男性はそれを窓際の少し離れた場所へと押しやりました。
続いて、飲み物とわずかに残ったお食事の乗ったテーブルも。
東京湾の夜景を切り取ったような大きな窓の前には、わたくしの膝にある鞭を振るうための広い空間が確保されてゆきました。
銀幕の向こう側 9
「おいで。」わたくしは、答えることも出来ないでおりました。
上半身をむき出しにした男性を見ることも、でも視線を落として膝の上の房鞭を見ることもできずに・・・視線を窓外の夜景へと不自然に彷徨わせていたのです。
でもその視界には、ガラスに映る室内の様子が・・・容赦なく入り込んでおりましたが・・・。
男性は動かないわたくしの眼鏡をやさしく取り上げ、ワインクーラーの隣に置きました。そして、無言で膝の上の鞭を一旦ソファーに下ろすと、シルクのスカーフを手にわたくしを立たせたのです。
男性は窓枠に腰を下ろすと、両手を頭の上に組んだのです。
「そのスカーフで私の手を縛ってくれ。しっかりと、抜けないように。」
こくりと頷くと、わたくしは手の中のオレンジのシルクスカーフを取り上げました。綺麗にたたみ、厚みを出して・・・縛った痕が男性の腕に残らない様にしてから、男性にしてはすんなりと細いその両腕を括ったのです。
わたくしは・・・そう、いまではなんの抵抗もなく・・・男性の誘いを受け入れていたのです。何かが、欲しかったのです。わたくしの中にわだかまっているものを、壊し・無にするだけの・・・何かを。
目の前の男性の嗜好のことは、わかりませんでした。ただ、両腕の自由をわたくしに奪わせ、わたくしに向かって無防備な白い背中を差し出してくれているのです。
いままで一度も経験した事のないサディスティックな衝動が、わたくしを覆ってゆきました。
壁際のソファーに置かれた房鞭を・・・手にしたのです。
パァシィ・・ はじめてわたくしがベッドに向かって振り下ろした鞭は、情けない音しか立てませんでした。
「もっと、腕全体を使って振り下ろすんだ。」
わたくしに背を向けていた男性は、一度も振り返りはしないのに的確な指示を下さるのです。
彼の目は、お台場の夜景を臨む窓ガラスに映り込んだわたくしの姿を見ていました。
パァァン・・ 二打目は、ほんの少しだけ重い音に変わりました。
「そうだ。さぁいつまでもベッドを打っていてもしかたがない。そこに立って私を打ってごらん。さぁ!」
わたくしは、少し離れすぎているのではないかと思いましたが、男性の指示した場所から黒くしなやかな房鞭を男性の背中に打ち下ろしたのです。
パァシッ・・・ うっ 鞭の音と男性のうめき声が、シャンソンの流れる室内に同時に響きました。
「もっと、力を込めるんだ。」
大きく振りかぶった腕を、真っすぐに打ち下ろします。
パァン・・・ んくっ 男性の白い背が撓ります。
「そう、もっとスピードをつけて。」
わたくしは引き上げた腕を、一気に振り下ろしました。
パン・・・ あぅっ 背中に赤い痕が走ります。
「大丈夫ですか?」
「それでいいんだ。さぁ、続けて」
男性に走りよろうとしたわたくしを制すると、そのまま先を促します。
わたくしはもう一度、鞭を振るったのです。
パン・・・ っく 男性の噛み殺した呻きがシャンソンに紛れる事なくわたくしの耳に届きます。
先ほどと同じところにもう一筋の赤い痕が重なりました。
「上手だよ。もう一度」
同じ場所を何度も打たれた後の痛みのことを・・・わたくしはとても良くわかっておりました。だから、少しでも衝撃を分散させたいと思ったのです。
パァゥン・・・
コントロールを誤ったわたくしの鞭は、男性のスラックスに包まれた腰に当たってしまいました。
銀幕の向こう側 10
「鞭の動きを制御するのは君にはまだ無理だろう。気にしなくていいから背中を打つんだ、さぁ」わたくしは打たれた事はあっても、鞭を振るうのは初めてでした。
当然のことですが、鞭の扱いには慣れておりません。
わたくしの反応に合わせて、長谷川さんや高梨さんが縦横に振るったような鞭遣いは、まだとても無理でした。
なのに・・・生意気にもコントロール出来ると思い失敗した恥ずかしさから、反射的に・思い切り次の鞭を振り下ろしたのです。
パシィ・・ うっ
八条の革が一所に寄り、男性の背中のカーブに沿って肌を隙間なく舐める様に貼り付いてゆきました。革の見せる美しい軌跡はわたくしの目を奪い、男性に与えた衝撃も痛みも忘れさせたのです。
はじめての官能的なまでの手応えに、わたくしは立て続けに房鞭を振るいました。
パシィ・・・ くっ
パシ・・・・ ん んっ
パン・・・・
パシィ・・・ ぅうっ
パシ・・・・ っ
コントロールの利かないわたくしの鞭は、同じところを執拗に何度も打ちのめしていたにも関わらず、男性は声を抑えてらっしゃいました。
括った両腕をカーテンレールを掴む様に上げ、立っている姿勢も微動だにいたしません。
「もう、終わりか・・」
パシ・・・・ うっ
挑発のような男性の言葉が終わる前に、わたくしは次の鞭を繰り出しました。
初めてとは言え、立て続けの打擲はわたくしに効果的な鞭の操作を教えてくれていたのです。
パン・・・・ くっ
パシィ・・・ ん
パシ・・・・ ぅっ
パシィッ・・ っ
「ありがとうございます。もう・・・」
連続して10回以上にも及んだ鞭打ちに、わたくしは両肩を喘がせておりました。この行為が、これほどに体力を要するものだとは思ってもおりませんでした。
いままでわたくしを打たれた方達はいつもクールに打たれ、そしてその後には熱い身体を重ねていらしたのに。
それとも・・・この喘ぎはわたくしが女性だから・・なのでしょうか。
「もっと! 遠慮しなくていいんだよ。」
「いえ、もう」
「だめだ。あと最低でも5回、全身の力を込めて打ちなさい。」
男性は姿勢を崩すことなく、わたくしを振り向いてそうおっしゃったのです。
「だって、あなたのお背中・・・」
「いいんだ。まだ君は立っている。そんな風に理性が勝っている状態じゃ意味がない。さぁ、打つんだ!」
パァン・・・・ んっ
わたくしは再び鞭を振り上げたのです。
パシッ・・・・ はっ
パシ・・・・・ ぅっ
「もっと!!」 枯れたと思っていた涙が再び溢れ出しました。
パン・・・・・ くっ
パシィ・・・・ ん
パァン・・・・ んぅ
パシィ・・・・ ぁ
「まだ だ!!」 わたくしの頬に・・振り乱した髪が貼り付きます。
パシ・・・・・ んぁ
パシィッ・・・ あ・・っ
「あぁぁっ・・・・もう、ゆるしてっ」
全身を使って男性の赤い背中に振り下ろした最後の鞭と同時に、わたくしは膝を折ってしまいました。ベッド脇に右手に革の房鞭を握ったまま、はぁはぁと息も荒く座り込んでしまったのです。