女性運転手 結城 1
突然の雷雨がオフィス街を襲った夕刻、わたくしはクライアントのオフィスを出たばかりでした。美貴さんがオーナーをなさっているバーまではほんの少し。傘も持たず、A3のブリーフケースとバッグを手にした白のワンピース姿だったのです。ほんの少し雨宿りをさせていただこう・・・と、心を決めて地下へのドアへ向かったのです。
激しく上がる雨の跳ね返りは華奢なパンプスの足首に幾つもの雨痕をつけました。
「いらっしゃいませ。あら、酷い降りなのですね。」
急な階段を降りて行ったわたくしを見て、小柄な女性のバーテンダーが真っ白なタオルを差し出してくださったのです。
「ごめんなさい、まだ準備中のお時間だったかしら。」
髪に・・ワンピースのスカートにそっと寄り添うような水滴を、お言葉に甘えて拭わせていただいたのです。
「いいえ。こちらにどうぞ。」
大振りな書類ケースとタオルを受け取ると、バーテンダーさんはカウンターの一番奥の席の椅子を引いてくださったのです。
「いつものシャンパンでよろしいですか?」
「ええ。」
このバーテンダーさんとお逢いしたのは、昨年の秋以来のことです。
なのに、昨日伺ったばかりのような接客をしてくださるのは、オーナーとそのご友人のせいなのでしょう。
「いかがですか?」
差し出されたシャンパンは、いつものフルートではなくカクテルグラスに注がれていました。そしてその中央には、美しく色づいた佐藤錦が添えられていたのです。
「あら、すてきね」
「春の苺と違って香りを添えるというわけではないのですが、初夏のこの時期ならではの彩りですからどうぞ眼でお楽しみください。」
「いただきます。」
わたくしの好きなドライなマムが、湿度の高い雷雨の前の空気の気配をすっきりと拭ってくれたのです。
「失礼いたします。」
ドライフルーツをいくつか盛り合わせた小皿をカウンターに出すと、バーテンダーの女性はバックヤードに下がって行ったのです。
キュートなショートヘア、きびきびとした身のこなし、小柄な身体、きりっとしたパンツルック。少年のような透明感のある声。
彼女の姿は、やはり一度だけお逢いしたことがある女性のことを思い起こさせたのです。
クラシックの流れる店内は、はじめて訪れた時と同じ重厚で居心地のよい大人の空間のままでした。雨に濡れたわたくしを気遣ってでしょうか、あまり冷やしすぎないエアコンの空調も心地よかったのです。
雷雨が、このバーを別の空間に運んでいったかのように、わたくしがシャンパンを飲み干すころになってもどなたもお客様はお越しになりませんでした。
ぱたっ・・・ 階段の上の厚いドアが優しく閉じられる音と、革靴の音が聞こえてきました。
「おひさしぶりです。祥子さん。」
優しく穏やかな声は、山崎さんだったのです。
「同じものを。」
店内に戻ってきた女性バーテンダーに、空になっているカウンターの上のグラスを目で示してオーダーをすると、わたくしの左隣にお掛けになったのです。
「ご無沙汰しております。お元気でしたか?」
1月に石塚さんの別荘でお別れして以来でした。春先には、ウエディング・コレクションのブランドも大きな成功をおさめたと、経済誌には書き立てられていらっしゃいました。
「ええ、相変わらずです。祥子さんもお変わりなく。雨に濡れた姿も、いつになく素敵ですね。」
最後の一言は、軽く腰を浮かせてわたくしの耳元で囁くのです。
山崎さんのすべすべとした手のひらの感触を・・・ふいに思い出してしまいました。
「おなじものでよろしかったでしょうか。」
バーテンダーの女性は、わたくしの前には先ほどと同じさくらんぼ入りのシャンパンを、山崎さんにはフルートグラス入りのものを並べました。
「夕立に、乾杯」
軽く目の高さにグラスを上げて、わたくしは2杯目のシャンパンを口にしたのです。
今度のグラスは・・・マムではなく、ドンペリニヨンのようでした。
「他の方達は?」
このバーにわたくしが伺った事は、美貴さんや石塚さんにもとうに連絡がついていることでしょう。
「今日は美貴と石塚さんは京都にいるそうです。祥子さんがいらしたと聞いて、ふたりとも悔しがっていましたよ。上七軒の名妓を侍らせているところだったようですけどね。」
「ふふふ、相変わらずですのね。」
「そんなわけで、今夜は僕が祥子さんを独り占めする栄誉を手に入れたわけです。」
芝居がかった口調すら、おっとりと上品な山崎さんにはお似合いでした。
「お忙しいのに、駆けつけてくださったのでしょう。申し訳ありませんでした。」
「いえいえ、今日は夜の予定もありませんでしたからね。たまには、結城くんのことも早く帰してやりたかったので、好都合でしたよ。」
そう・・・たしか、結城さんというお名前だったわ。
「今夜は山崎さんがわたくしの雨宿りに付き合ってくださるの?」
「祥子さんが許してくださるなら、ね。」
「ふふふ、あのね・・・聞かせていただきたいことがあるの。教えていただけますか?」
「僕にわかることなら、なんなりと。」
こうして、わたくしはあの羞恥に満ちた元旦のドライブの間、ずっとハンドルを握っていてくださった女性ドライバーについて、山崎さんからうかがうことができたのです。
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