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ひいなの午後

「おひとりですか?」
ショーウインドウをじっと見つめていたわたくしに声を掛けたのは、40代後半の紳士でした。仕立ての良いカシミアのコートとストール。チョコレートブラウンの革の手袋は足許のショートブーツと同じ色で揃えられて、その方の趣味の良さを感じさせました。
「ええ あっ、ごめんなさい。これをご覧になりたかったんですね。独り占めしててごめんなさい。」
「いえ、そういう訳ではないんです。」
引き止めるような視線を向けたその方に、わたくしは<どうして?>というように軽く首を傾げたのです。
「ご覧になっていたのは、そのお内裏様ですか?」
「ええ」

わたくしが視線を釘付けにされていたのは、陶器のひな人形でした。
両手の上に乗るくらいの小さなちいさなお内裏とお雛様。いわゆる形式化された日本人形のおひなさまと違って、生身の人間が身に付けた時と同じように広がる十二単のフォルムに心惹かれて、ついじっと見つめてしまっていたのです。

「お嬢様のためですか?それとも二つ目のおひな様に?」
「ふふふ どちらでもありませんの。」
「えっ」
「子供がおりませんの。それに今では独りですし。ですから、お雛様を求める資格を持っておりませんのよ、わたくし。」
「あっ、失礼なことを。申し訳ありません。実は私は・・・」
いつの間にか向かい合うように立っていたその紳士は、流れるような手つきでコートの内ポケットから名刺を取り出したのです。
ビジネスの時のように差し出されたその方の名刺には、お名前の他に京都の住所と代表取締役の肩書きが墨跡鮮やかに記されておりました。
「頂戴します。」
「その人形はうちの会社のものなんです。」
「あら、そうでしたか。それじゃ市場調査に? でも、あの標準語でらっしゃいますね。」
「私はこちらの出なんですよ。妻の実家が清水の窯元でして」
「そうだったんですか。ごめんなさいね、いいお客様じゃなくて。」
「ははは そんなつもりでお声を掛けた訳じゃないんです。」
名刺を手にしたわたくしを見つめていた瞳がふと椿柄の十二単のお雛様を振り返り、改めてわたくしの瞳を見て人形の感想を口にするようにこうおっしゃったのです。
「お茶でもいかがですか?」
そうでした。
この方は「お一人ですか?」と声を掛けてきたのです。
初対面の方とお茶・・・いつもなら理性がもっと警戒メッセージを鳴らすはずでした。なのに、あまりに率直なそのおっしゃりように、ご一緒してもいいという気持ちになっていたのです。
「わたくしでよろしければ。」
「あぁよかった。美味しい珈琲の店があるんです。」
「珈琲好きですわ。」
「すぐ近くです。」
先ほど立ち話をしていたときと同じ間合いで・・・その方はわたくしと歩き出しました。

「ひな人形がお好きなんですか?」
ビルの3階にある落ち着いた雰囲気のお店で、わたくし達は珈琲を楽しんでおりました。
お好きな席へどうぞ、と言われその方が選ばれたのは枝ものと季節の花を大胆に生けたオーバルの大きなテーブルの片隅でした。
「差し向かいじゃ緊張しちゃって」
照れたように口にするその方はまるで少年のようでした。

「子供のころ、人形は妹のものだったので。ぬいぐるみやフィギュアと言われるものにはあまり興味はないのですけれどお雛様だけはいつかは自分のものが欲しいなって思っていたんです。」
「人形が妹さんのものだとすると、加納さんのものはなんだったんですか?」
「ふふふ 本だったんです。平凡社の百科事典から世界文学全集まで。そのせいで、ちっとも可愛げのない子供に育ちました。」
「いえ、そうか そんな風に育てると加納さんみたいな素敵な女性になるんですね。」
「お世辞がお上手ね。でもお嬢さんがいらっしゃるなら、ちゃんといいお人形も差し上げないと。情緒がない子になっちゃいますわ。でも、大野さんのお宅でしたら素敵なお人形には事欠きませんわね。」
「そう思ってくれればいいんですけどね。」
お隣の席でその方は苦笑いのような表情を浮かべるのです。
「うちの人形では加納さんのお眼鏡にはかないませんでしたか?」
「いいえ 素敵ですね。わたくしはあの十二単のフォルムが好きなんです。桜の姫も素敵ですし椿の姫も雪輪の姫も、迷ってしまいますわ。」
「それだけですか?」
「それだけ?」
「十二単の柄で迷われたにしては、複雑な顔をしてご覧になっていたような気がしました。」

ひとりだと思って油断をしていたみたいです。
お雛様には、まだ人妻だったときの悲しい想い出がありました。
きっとそれが、顔に出ていたのでしょう。

「つまらないセンチメンタリズムです。結婚していたころに義理の姉のところにお雛様を贈ったことがあって、その時にわたくしも買いたいって夫に話したんです。」
「そうしたら?」
「義母が、子供も産まないうちからひな人形なんて買うもんじゃない。そんなことをしたがるからいつまでたっても石女なんだって。」
「・・・ひどい」
「大正の人ですから。いまは独りですからお雛様を買うくらい自由なんですけど、欲しくなって見に行くたびにその言葉が頭の中に聞こえて買えなくなっちゃうんです。」
「そうでしたか。」
苦い想いを飲み下すように、わたくしは目の前の珈琲に口をつけたのです。
「それと今年はもう一つ理由があって・・・」
「その理由は先ほどのような酷い理由ではなさそうですね。」
「お解りになりますか?」
「加納さんはご自分がどれほど表情が豊かなのか解ってないみたいですね。」
「いやだわ。初対面の方にこんなに顔を読まれるようじゃ、お仕事の時・・・」
「そんなことはないでしょう。きっと仕事の時はもっと厳しい眼光でライバルの視線なんか跳ね返してるはすだ。」
「さすがに社長さんですね。人をご覧になるのに長けてらっしゃるわ。」
「職業柄というよりも惚れた弱みかな。」
「ふふふ ほんとうにお上手だこと。」
「じゃぁそういうことにしておきましょう。 で、もう一つの理由はなんなんですか?」

どうしようかと思いました。
とっさの作り話くらいいくつでも思いついたからです。
でも・・・

「いまお付き合いしている方のお嬢さんたちのことを思い浮かべてしまったから。」
「・・・・あぁ やっぱり」
しばらくの間の後で、その方は胸にすとんと落ちるような声で呟かれたのです。
「まだ桃の節句を祝うような年頃のお嬢さんなんですね。」
「ええ」
「加納さんなら、不思議はないでしょう。本当に優しい方なんですね。」
「そんなこと。わがままなだけですわ。本当に優しければそんなお嬢さんを悲しませるようなことをしなければいいんですから。」
いや という風に大野さんは首を横に振られました。
「だとしたら、なにか訳があったのでしょう。」

「また暫くは、私のところで作ったお内裏様を加納さんには買ってはもらえそうもないですね。」
もう冷えてしまった珈琲を飲み干して、その方は立ち上がりました。
「ごめんなさい。こんなに美味しい珈琲までいただいたのに。」
「そんなことは気にしないでください。それじゃ、甘えついでに駅まで送っていただこうかな。」
「そのくらいでしたらお供いたしますわ。これから京都にお戻りですの?」
ボ~ン・ボ~ン・ボ~ン・・・扉を出るわたくし達の背中でお店の掛け時計が3時を告げていました。

「先ほどと違う出口?」
エレベーターで上がって来たのとは違う出口へすたすたと歩き出した大野さんのコートの背中をわたくしは追いかけたのです。
「こちらの方が駅に行くには近道なんですよ。」
「あっ・・・」
綴れ折りになった階段を2階まで降りた踊り場で急に腕を引かれ、倒れ込んだ大野さんの胸の中で・・・わたくしは唇を奪われていました。
「ん・・・ だ・・め・ぇ・・・・」
優しいのに力強い腕
しっとりとブルーマウンテンの香りの唇
わたくしの顎をつかみあげるしなやかな指
巧みに快感を引き出す舌先
「好き・・で・す・・・我慢・・でき・なか・・った」
喘ぐような声もすぐそこの大通りを走る車の騒音がわたくしの耳元より外には出さないようにかき消していたのです。二人の姿は・・・レンガづくりの階段の外壁にしっかりと守られていました。
「わかっているのに・・・いけず・・」
大野さんの唇が離れても、わたくしの身体がひとりで立てるだけの力を取り戻すまで数分が必要でした。
「これきりです。そう思ったら堪えられなかった。すま・」
わたくしはまだ震える人差し指を彼の唇に押し当てたのです。
「謝ったら許しません。そうでしょう?」
「あぁ そうだね。」
大野さんの深い瞳がじっとわたくしを見つめていました。

「そろそろ行かないと、新幹線に遅れますわ。」
「そうだね。送ってもらえるのかな。」
「ええ。最初で最後のお見送りですから。」
「ありがとう、急ごう。」

「手を出して」
改札に着いた時、大野さんは一つの小さな箱をわたくしの手にのせたのです。
「これ?」
「私からの今日のお礼だ。ずっとしまっておいても、壊して捨ててくれてもいい。あなたの手元に置いてくれ。じゃ、行くよ。」
「ありがとうございます。」
わたくしの最後の声に背中で答えて、その方はホームへ向かう階段へと消えてゆかれました。


手の中の箱には、いままで見た事のなかった見事な清水焼のひな人形がありました。
ほんの少しだけ・・・お雛様の表情が寂しげなのが印象的な一対です。
わたしはまだそのお雛様を飾る事ができません。でも、いつか・・・。
箱のまま香を薫きしめて、今年も大切にその人形はしまってあります。
コメント
桃の節句、女の節句。

健やかな成長と幸せを祈る、という点ではその対象が娘でなくてはならないとは限らない
…なんて思います。

祥子さんの幸せをわが家の雛に祈りつつ…。

2008/03/03 21:16| URL | dreamcat  [Edit]
dreamcat様
ふとした思いつきでアップしたショートショートにお目を留めてくださったのはdreamcat様でしたね。
ありがとうございます。
今回もあまりセクシャルではないお話で申し訳ございません(笑)。
素敵な陶器のひな人形は、実際に販売していますのでお手元にお持ちの方も多いかもしれません。
本当に素敵なんですよ♪

2008/03/04 12:58| URL | 祥子  [Edit]
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2008/03/04 13:52| |   [Edit]
桃の節句、春霞の中にだけ許された白昼夢ですね。
大人の凝縮された時間が、とても豊かに描かれています。
メールだけの恋、ただ想うだけの恋、それがこのような一瞬を迎えられたらと願っていますが・・・
さて・・・現実は厳しいです。

2008/03/04 20:26| URL | masterblue  [Edit]
随分悩んでいる内に、今年も完売…リヤドロ?!
ちょっとバタ臭いお顔も面白くて…。
とりあえずは、今UPしている木目込みも、迷って選んだので、もう少し愛でたいと思っています。
なんとなく、気持ちが華やぐ、桃のお節句。
初春の午後、柔かい日差し…。

昨日は黄砂に煙っていましたが
春は、もうそこまでですね!

2008/03/04 22:51| URL | るり  [Edit]
素敵です♪
さいごに手渡しされた、淋しげな雛人形。
もしかするとこの紳士にも、なにか悲しい想い出があったのでは?と感じるのは、深読みに過ぎるでしょうか?
喫茶店での才気あふれるやり取り。
とくに表情豊かな・・・というくだりが、じつによかったです。
こういう会話をすらすらとできるような、品の良いオトナになりたいものです。^^

2008/03/04 23:39| URL | 柏木  [Edit]
白酒の酔いをさます冷たい風が
ひなまつりが終わった途端に夜の雨やら気温が下がるやら。あたたかな気分を引き締めるような天候は、桜までは気を許すんじゃないと言っている神様の思し召しのようです。

masterblue様
一期一会だからこそ起きた奇跡のような出来事だったように思います。
メールの恋は、まるで小説を読むように心の中に濃密に構築される恋だと思うのです。そんな深くて甘やかな恋はきっと大人の恋だから・・・。
いつか夢が実現するとよいですね。

るり様
リヤドロのお雛様はボーンチャイナの白地の上に描かれるあのはかないブルーからパープルの色味がなんとも寂しげな華やかさで・・・。
同じ陶器のお雛様でも随分と風情の違うものですね。
わたくしにとっても憧れの逸品です。
春まであと少し。
やってきたら思い切り楽しめるように、心と身体を準備しておきましょう。

柏木様
別館のことでお話をしたときに、初句からお話が一つ出来そうですね・・・とおっしゃったので、この物語を作ってみました。
サイドストーリーのような内容になってしまったのは、お見逃しくださいませ(笑)


2008/03/05 16:26| URL | 祥子  [Edit]
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2008/03/05 21:02| |   [Edit]
酔います
祥子さんの語りには、いつもいつも
酔ってしまいます。

まだまだお忙しそうなので、
コメントも控えないといけませんが、

拙ブログで、ちょっと早めですが
桜の写真をアップし始めました。

気分転換にお越しください。

2008/03/10 20:33| URL | くろす  [Edit]
初めまして
偶然に「ひいなの午後」にお目にかかったのが3月3日。それから1週間を費やして全作品を拝読しました。
上質さに感じ入り、自身に足りないところを多々気づかされました。

これら物語の作者は、男性。
組織において頂点を極められた後、一線を退かれ自適な日々を過ごされている。
奥様の祥子さんを愛し抜いておられる。
以上、私の想像です。失礼致しました。

祥子さんのご健康、ご活躍お祈りします。


2008/03/11 02:32| URL | かずみ  [Edit]
ありがとうございます
くろす様
お久しぶりでございます。
ブログ名も新たにスタートされていたと存じ上げず・・・リンクの変更も遅くなってしまいましたがどうぞお許しください。
昨日の暖かな気候のせいで、早咲きの桜はちらほらと膨らみはじめましたね。
一足先にくろす様のブログで、桜を楽しませていただくことにいたします。
気まぐれな更新ですが、ぜひともまたお越し下さいませ。

かずみ様
はじめまして。
そして、丁寧なコメントありがとうございます。
全てを読み通していただいたとのこと、とても嬉しいです。
作者についての考察も興味深く拝見いたしました。
満ち足りた素晴らしい男性に愛され・守られている、とても幸せなわたくしをご想像いただけたのですね。
いつか、そういう方に愛されたいというのがわたくしの儚い願いです。

まだまだ本格的な復活とはいかず不定期の更新ですが、どうぞまたお越しいただければ幸いです。

2008/03/12 10:59| URL | 祥子  [Edit]
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