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黒衣の情人 7

長谷川さんは手もとを見る事なく、わたくしに話しかけてくださいます。
それでもミスタッチのない演奏は長い間ピアノに触れていた経験を感じさせました。
「ははは、現場を見せるだけなんてそんなありきたりなことは石Jr.がさんざんしているだろう?」
「いいえ、そんなことは一度もなかったの。石さんのことも、あんなに大きな会社の偉い人なんだってあの日初めて知ったんですもの。」
「ほぉっ・・・」
長谷川さんは意外そうな表情をされていました。
「ディベロッパーをしているとは聞いていたわ。でもあの業界もピンからキリでしょう?だから、お1人で人脈を生かした・・・そんなお仕事をなさっているのだとばかり思っていたのよ。」
「見掛けによらず、粋な人なんだね。」
粋な人。長谷川さんが石塚さんを評するその言葉は、正に正解でした。
「ふふふ、ひどいわ。そんな風におっしゃったら石さんに怒られちゃいますわよ。」
「はははは・・・。」

笑い声をきっかけに、流れ出した次の曲は Fly me to the Moon でした。
「歌えるだろう?歌ってごらん。祥子さんの声が聴きたい。」
じっとこちらを見つめて、リリカルにジャズのスタンダードのメロディラインを引き続ける長谷川さんに・・・わたくしはシャンパンで喉を潤すと・・・いつもお話しているよりは幾分か高い声で歌いはじめたのです。

Fly me to the moon 
Let's me sing among those stares・・・
今夜のライブのようなインスツルメンタルは、アドリブにアドリブを重ねてゆきます。ですが、長谷川さんの弾くピアノはまるで映画音楽のように綺麗にわたくしの声に添ってくださいました。
You are all I long for all I worship and adore
変調をかけた一節のあと、ゆっくりと、長谷川さんの眼を見ながら最後の歌詞をつづけたのです。
In other words, please be true 
In other words, I love you
”言葉なんかじゃなくて・・ほんとうの気持ちを教えて・・・おねがい・・愛してるわ“
「澄んだ声だね。なのに、背筋を這い上るような艶と声量がある。不思議な声だ。きっと上手だとは思っていたが、これほどとは・・・思わなかった。」
「恥ずかしいわ。お聞かせするつもりなんてなかったのに。」
確かに接待のような席で、カラオケを歌うことはありました。
生のピアノで歌うなんて本当に数少ない経験です。
長谷川さんの指は、まだ同じメロデイーを繰り返して弾いてらっしゃいました。リズムを変えて・アレンジを変えて・・・。

「ここで、ランジェリー姿になりなさい。」
まるで「歌ってごらん」と言うのと同じ調子で・・・長谷川さんがそうおっしゃったのです。

黒衣の情人 6

建築用の大きな照明が、まるで間接照明のように配されて空間を明るく照らします。
外は肌寒いほどですのに、あちこちに設けられた大型のオイルヒーターはほんのりと室温をあたためておりました。
そして、眼の前には・・・わたくしの見たものが錯覚ではないと諭すように、20畳ほどのペルシャ絨毯の上に、応接セットとグランドピアノが置かれていたのです。

「流石の祥子さんも、こんなところに来るのは初めてかい?」
「え・え・・・」
マンションのプランニングのお仕事をお手伝いをしたことはありました。それでも建築途中の、まだ内装すら済んでいない建物の中に、ヘルメットもなしで入ったのははじめてでした。
わたくしをソファーへとエスコートすると、長谷川さんはわたくしの肩に手をかけて座る様に促すのです。
ムートンのコートを脱いで袖だたみにしてソファーの肘掛けにかけると、ゆったりと座面の広い革張りのソファーにわたくしは腰を下ろしました。
「このビルは、いま僕が手がけている仕事の1つなんだよ。」
長谷川さんも暖まったソファーの周りの空気を確認するように、バーバリーのコートを脱ぎました。
わたくしのコートを一緒に手に取ると、ソファーの後ろにあるハンガーラックへと吊るしてくださいます。
そして、次に向かわれたのはソファーセットの少し先にある小さな冷蔵庫でした。
ヴーヴクリコのミニチュアボトルと、グラスを2つ。長谷川さんは大理石のテーブルに並べました。

「もう、ライフラインは完備している。化粧室も、ほらあそこに出来上がっているから心配しなくていい。」
長谷川さんが指さしたのは、さきほどエレベーターを降りてすぐに目についた壁に囲まれた空間でした。3枚の建築用シートの2枚目と3枚目に挟まれる様に・・・その空間はありました。
「さぁ、3ヶ月ぶりの再会に乾杯しよう。」
「乾杯♪」
チン・・・ グラスを交わす澄んだ音が響きます。でもわたくしはまだ不思議な心持ちから抜け出すことができなかったのです。
そこに配されているものは、1つ1つはとても見事なものでした。
でも、普通なら存在する訳のない場所にレイアウトされた贅沢な品々は・・・まるでダリの絵の中に入り込んでしまったようなシュールな感覚に、わたくしを浸していたのです。

「ここって、竹上建設さんが建ててらっしゃるビルなの?」
「そうだよ。完成すれば、あの石Jr.が販売する。もう少しで鳴り物入りのCMがあちこちの番組で流れる様になるよ。」
「なにになる予定なんですの?」
「このビルは、下層階がショッピングセンター、中層階にオフィス、上層階はあるシティホテルが入ることになっている。」
34階・・・ここは多分、将来はホテルになるフロアでしょう。
「このビル全部の設計を長谷川さんが手がけられたの?」
「はは、うちの設計事務所が手がけてる。」
「でも・・・」
ご自分が、と仰らないところがこの方なりの奥床しさです。あの時、石さんもそう言ってらしたのです。黒部設計の名前で創られるこういう物件は、全て長谷川さんがこなしていると。
「でも、どうして・・・?長谷川さんが手がけた物件なら、他にいくつもあるでしょう。」
「そうだね。気まぐれかな。」
もう1本、シャンパンのミニボトルを冷蔵庫から出すと、ご自身とわたくしのグラスを満たして・・・今度はソファーにはもどってはいらっしゃいませんでした。
黒のウールのジャケットだけを脱いでソファーの背に掛けると、グラスを持ってグランドピアノの前に座られたのです。

パララ・ラ・ン・・・ わたくしからは、長谷川さんの背しか見ることができません。それでも澄んだピアノの音は、彼の腕の動きに添って響いていました。
「誰にも邪魔されずに、祥子さんと思う存分過ごしたかった。それに、この間の船上パーティで僕の正体もバレたしね。だったらこういうのもいいかと思ったんだよ。実は少し自慢もしたかったし・・ね。」
最初はランダムに叩かれていた鍵盤は、いつしか今宵長谷川さんの隣に腰を下ろした時に流れていた<枯葉>へと変調してゆきました。
「これって・・・まさか・・もしかしてわたくしのために?」
「ふふ、祥子さんも変な人だね。君のため以外に、なんでここにこんなものが必要だと思うんだい?」
「なんて・・こと・・。」 
たとえ、設計を一手にご担当されているとは言っても、こんな機材を運び込んで・・・1人で今夜だけとはいえ一晩中勝手をするなんて・・・セキュリティの上からも考えられません。
「このフロアはいずれスポーツクラブになる予定なんだ。もう一つ上のフロアはバーとレストランのフロアだ。躯体が出来上がったところで、設計のイメージを固めたいと竹上開発の担当者とここの現場監督に相談したら、二つ返事でこの空間を作ってくれたよ。24日の夜まで、このビルには僕1人しか立ち入れないことになっている。」
こんな風に話しながら、長谷川さんの手は止まりませんでした。ジャジーな枯葉を情感たっぷりに・・・アレンジしながら弾いてゆくのです。
わたくしは、彼のピアノの上を走るしなやかな指が見たくなって、グラスを持ってピアノの側に近寄ったのです。
「ここじゃ、気に入らないかな?」
わたくしの返事など気にする風もなく、長谷川さんの指はピアノを操ります。今度は・・・エミリー・・です。
「気に入らないなんてこと・・・こうして連れて来て下さってうれしいわ。でも普通だと『ほら、これが・・・』って仮囲いの外から教えて下さるだけでしょう。だからタクシーを降りた時、ここから別のところに行くのかと思ったの。ごめんなさい、びっくりしただけよ。」

長谷川さんの指は、ときおり関節が白くなるほどに力強く鍵盤をたたくかと思えば、まるで触れているだけでピアノが快感のため息を漏らしているかの様に軽く、羽のように長い指を閃かせてゆくのです。

黒衣の情人 5

「いいライブだった。」
「ええ、ワインもお食事も美味しかったわ。ごちそうさまでした。」
改めて長谷川さんにお礼をいたしました。
二人、一緒になっていた伝票を、今夜は彼が清算してくれていたからです。
「いや、祥子さんのお陰で美味しいものが食べられたようなものさ。」
隣の席で笑う長谷川さんは、手ぶらでいらっしゃいました。
長谷川さんがお勤めになっている設計事務所は、ライブ会場になっているホテルの近くだったはずです。きっといろいろなモノは、そちらに置いていらしたのでしょう。
わたくしは、少し大きめなバッグが1つ。
書類の類いはオフィスに置いてきましたが、今夜は長谷川さんと過ごすためにパンティとストッキングの替えだけはポーチに入れて忍ばせてきていたのです。

タクシーはいくつかの大きな交差点を曲がり、15分ほどで大きな工事中のビルの前に停まりました。
「ああ、ここでいい。ありがとう。」
長谷川さんは料金を差し出しています。
「ありがとうございました。」
開かれたタクシーのドアから降り立ったわたくしは、どこに行けばいいのか・・・まったくわからなかったのです。
ここは、永田町の近くなのでしょうか。オフィス街のまっただ中。
当然ですが、深夜23時を回っているのです。周囲のビルはどこも明かりが落ちていました。
「祥子さん、こっちだよ。」
長谷川さんの声に、わたくしはタクシーを降りた通りから街区へ入ってゆく道を彼に付いて歩いてゆきました。
左手には外観は既に出来上がっていますが、まだ仮囲いは外れていない高層ビルがありました。
白いその仮囲いには、黒々とビルの名称と<竹上開発><竹上建設><黒部設計>の名前が印されていたのです。

「ここなのですか?」
質問を口にしようとしたわたくしは、表通りから丁度真裏にあたる路地に入ったところで、長谷川さんは仮囲いのシートをずらして待ってらっしゃる姿に気付いたのです。
「早く来なさい。」
わたくしをシートの中に引き入れると、その中のゲートを閉めてセキュリティーカードを差し込みます。
長谷川さんの手には、いくつもの鍵とカードがありました。
ゲートの中には長谷川さんのベンツが停まっています。
これに乗って・・・いいえ、今夜長谷川さんはもうわたくし以上にワインを召し上がっているのです。だとすると・・・。
「寒いだろう。中に入ろう。」
大型の懐中電灯を手にした長谷川さんが、ビルの通用門に当たるドアを開けているのです。
「ここは、どこ?」
「質問は上に上がったら答えてあげるよ。」
優しい声で、わたくしの肩に手を回すと、背中のドアの鍵を下ろしたのです。

工事用のスケルトンエレベーターをいくつか乗り継ぎました。
「ここだよ。」
最後に、長谷川さんに背を押されて降りたフロアには、エレベーターから漏れる明かりで鉄骨に<34>という数字を書いた紙が貼付けられていたのがわかりました。
バァン・・・ゥィィィィィ・・・
長谷川さんがエレベーターのすぐ側にあった建築用の大型のブレーカーを繋いだようです。
フロアにところどころに強い照明がついたのです。
目の前に広がる床は、まだコンクリートを打ちっぱなしにしただけのようでした。
いくつかの壁は出来上がっていましたが、長谷川さんが向われた先は、エレベーターから外壁までの間は・・・柱はあるもののまだ壁のない空間でした。
エレベーターホールから見ると少し歪んで見えるフロアの先には、現在のこの内装の状態にはそぐわないいくつかのものが見えたのです。
その1つは、グランドピアノでした。
「こっちだ。来なさい。」
長谷川さんが、空間を摘まみ上げます。
手元にたくし上げられたものを見て、それが天井から床まで張り巡らされた透明な建築用のシートであることがわかりました。
1人、工事現場のエレベーターホールに残されるのは不安でした。
わたくしは小走りに長谷川さんに近づくと、長身の彼が開けてくれた空間へ入り込んだのです。
「次はここ。」
同じようなシートを3枚、わたくしは長谷川さんと共にくぐったのです。
その先には、100坪以上の広い空間が広がっておりました。

黒衣の情人 4

「お約束は違えませんわ。」
「ああ、それはわかっている。だけど、1曲目のオレオが終わって枯葉が始まっても祥子さんの姿が見えなかった時には、本気で振られたと思ったよ。」
「もう、そんなに信用がないなんて・・・」
「夏の時もあっさりと石塚のジュニアに攫われたからな。」
「あの時は・・・」

「お久しぶりです。加納様、長谷川様。」
わたくしの抗弁は、ジャズライブの主宰者の沢田さんの声に消されてしまいました。
「いつも、お声がけしてくださってありがとうございます。お伺いできなかったりして・・・気まぐれですみません。」
「いえいえ、気まぐれでもこうしてお二人に来ていただけるだけで私も嬉しいんですよ。」
沢田さんの視線が、わたくしのスカートのスリットを這って行ったような気がして少し緊張してしまう・・・。
「ピアニストの方、腕が随分上がりましたね。」
「そうだね。ピアノの彼も久しぶりなので、余計に解るのかもしれません。力任せな感じが消えて、こう音が削ぎ落とされた様になってエミリーなんてとても心地良く聞かせてもらいました。」
「サックスの方も。このデュオも久しぶりですものね。少し緊張感があるけれど、なんていうか・・・それがいい音の厚みになっているような気がするわ。」
「お二人にそう言っていただけると彼らも励みになります。Secondセッションもゆっくりお楽しみ下さい。」

「祥子さんとここで逢うと、ゆっくり二人きりというわけには行かないみたいだ。初めて逢ったときみたいに、逃げ出したくなる。」
別のお客様のところに向う沢田さんの背を見つめながら、長谷川さんが愉快そうにおっしゃいます。決してご機嫌を損ねてらっしゃるわけではないと、その表情でわかりました。
「ふふふ。」
「あの主宰者の彼も、君のファンらしい。駄目だよ、誘われても付いて行っちゃ。」
「心配なさらなくても、誘われたりなんてしませんわ。」
グラスに残っていたワインを口にいたしました。オリーブは微かな塩味と完熟した実ならではの滋味がふんわりと口中に広がります。このフレッシュさは小豆島あたりの国産のものでしょう。
厨房からだと言ってくださったおつまみの数々は、どれもワインにぴったり合うものばかりでした。料理長は和食出身の方だと聞いていましたが、もうお一方の洋食のシェフのセンスはかなりのもののようでした。

30分の休憩もそろそろ終わりなのでしょうか?
お席をはずされていたお客様が少しずつ戻っていらっしゃいます。
Secondセッションの1曲目は、いつものTake Fiveでしょう。
「まあいいさ。今日はこのあと祥子さんを独り占めさせてもらえるんだろう?」
「ええ、お約束通りに。」
わたくしの言葉が終わると同時に、照明が落ちて・・・ピアノがTake Fiveのあの独特のリズムを刻みはじめたのです。
Take Five
パーカルズ・ムード
Fly me to the Moon
Work Song
Secondセッションはリズミカルに楽しめる曲で構成されておりました。
長谷川さんとわたくしは、あらためて言葉を交わすことはありませんでした。
ただ、眼の前のお皿に手を伸ばし、空いたグラスをワインで満たす時だけ自然と視線がまじわるのです。
その瞬間、長谷川さんの目元だけがふっと和らぐことに、わたくしは不思議な幸せを感じていたのです。

「ごちそうさまでした。」
フロントで会計を済ますと、わたくしは支配人とサービスチーフにそうご挨拶をして、長谷川さんが差し出してくださるムートンのコートに袖を通しました。
「車が来ています。また、どうぞお越し下さい。」
長谷川さんがお願いしていたのでしょうか。
タクシーが正面玄関で1台待っておりました。
「冷えています。お風邪など召しません様に。」
先に乗り込んだ長谷川さんの隣に座ったわたくしを確認して、支配人はドアを閉めてくださいました。
「ありがとうございました。おやすみなさい。」
そろって頭を下げるお二人の声にかぶる様に、長谷川さんが行き先を運転手さんに告げられたのです。
でも、そこは・・・わたくしにはあまり心当たりのない場所の名前でした。

黒衣の情人 3

あの夜の再会は本当に偶然の贈り物でした。
夏のさなかに、石塚さんが招待してくださった竹上グループの東京湾クルージング。100名近いパーティ会場のワインカウンターでわたくしたちは再会したのです。
わたくしにとってはジャズとワインがお好きな黒衣のS男性・・・でしかなかったこの方が、とても有名な設計事務所を支える花形の一級建築士であると知らされた夜でもありました。
いつもでしたらご一緒にいらっしゃる若い素敵な男性の方達が、ただの友人などではなく彼を師とも慕う部下の方だということもそのときに初めて知りました。

今夜の長谷川さんは、サンローランのものらしい黒のピークドラペルのスーツをお召しでした。インナーは黒のタートルネックのセーター。足元はブーツで、隣の椅子に掛けられていたコートはバーバリーのブラック・トレンチです。
この時期なので革のジャケットでいらっしゃるかと思っていたわたくしの想像は、いい意味で裏切られました。
オーセンティックな装いは、長谷川さんにとても似合っていたのです。

今夜・・・メールはいただいたものの本当に彼がいらしているかどうか、わたくし自身は半信半疑でした。
夏のあの日、お逢いして大してお話しする間もなく石塚さんに別室へと誘われ、パーティが終わるまで戻ってこなかったことがなにを意味しているかということぐらい、この方はご存知だと思っていたからです。
わたくしを手にいれるためなら、他の女は全て切る。
そうおっしゃった方が、あからさまに眼の前でパーティの主宰者の1人だとはいえ・・・他の男性にさらわれてゆく様を見て、なおもわたくしに執着するとは思えなかったからです。
もし、いらしてなかったらジャズだけを楽しんで帰ればいい。
メールを送っただけでいらっしゃらない・・・という、罪のないこの方の仕返しくらいは甘んじて受けようとさえ思っていたのです。

それでも、長谷川さんはいらっしゃいました。
きっと1曲目がはじまった・・・そのときから。
パチ・パチパチパチ・・・・
「これでFirstセッションを終了いたします。Secondセッションまで約30分ほどの休憩を頂戴します。どうぞゆっくりとお食事・ご歓談をお楽しみください。」
司会の沢田さんの声と同時に、照明が明るくなってゆきました。

「忙しかったんじゃないのか?」
カラ・ン・・・ ワインサーバーからボトルを取り上げると、クロスで水滴を拭き取りわたくしのグラスに注いでくださるのです。
「ごめんなさい。打ち合わせがひとつ増えてしまって。」
「ははは、こんな祥子さんと一緒にいられるなら仕事の1つや二つ余計に発注したくもなるな。」
チン・・ ご自分のグラスにも蜂蜜色の液体を注ぐと今日はじめてグラスを交わしたのです。演奏中、不用意にそういうことをなさらないのが、この方らしい好ましいところでした。
「お世辞がお上手ね。」
冷やされたワインは火照りはじめた喉を心地良く冷やしてゆきます。
「世辞なんか言わないさ。な、支配人。」
「ええ。よろしければこちらは厨房からです。」
シルバーのトレイから支配人が差し出したのは白い大きな四角いお皿でした。
骨つきハムのキューブカット・2種類のチーズ・ガーリックトースト・ドライフルーツ・2種類のオリーブ・・・そしてお野菜がきれいに盛りつけられておりました。
「加納様にお越しいただいて、厨房もサービスも喜んでおります。どうぞごゆっくりなさってください。」
2枚の取り皿とフォークとペーパーナフキンもテーブルに並べられました。
「ほら、祥子さんだからだよ。僕だけじゃ、こんな皿は出て来ないね。」
「ご容赦ください。長谷川様。」
腰の低い支配人は、一礼をして他の席のオーダーを聞きに行かれました。
この方は、わたくしと長谷川さんのはじめての情事を襖ごしに全て聞いていらした方です。
わたくしたちの秘密の関係をご存知の数少ない方だったのです。
「オリーブはどっちがいい?」
長谷川さんが取り皿を手にされていました。
「グリーンのほうをください。」
程よく熟したブリーチーズと、オリーブとガーリックトーストを乗せたお皿をわたくしに差し出してくれます。
「ありがとうございます。ごめんなさい、わたくしがしないといけないのに。」
「いいさ。今夜来てくれたからね、その些細なお礼の気持ちだよ。」
ご自身はハムとブラックオリーブを取り分けて、さっそくワインとのマリアージュを楽しんでいらっしゃいます。