外伝2/レンジローバーの帰り道 6
車内の音楽は、助手席に乗り込んだ石さんがカチャカチャと操作をして、クイーンのグレイテスト・ヒッツのナンバーに変わっている。勢いのある曲調は結城くんのドライビングにはぴったりだった。往きに掛かっていたジャズだったら、私の左にいた祥子さんの太ももの感触を思い出してしまっただろう。
「いまは、どのあたりかな?」
「もう、関越は走っているだろう。高坂あたりかもな。」
だれも主語を口にしないが、祥子さんの乗ったセルシオのことだ。
「だとしたら望月くんは相当飛ばしてるね。」
「たぶん、ね。せっかく祥子さんとふたりきりのドライブなのに、どこかのSAで僕たちに追いつかれちゃ台無しだからね。」
「たしかになぁ。もし、セルシオに追いついたらあっちの車に絶対移っちゃうもんな。」
「石塚さん。」
この人は、美貴と私の3人でいるときは本当に素のままだ。あまりに明け透けな言葉に結城くんが気を悪くするんじゃないかと気になって嗜めるように名前を呼んでしまった。
「ああ、運転手のせいじゃないから気にしないでくれ、な。」
ポン、と結城くんの肩を叩く。
「はぁ。」
結城くんの返事に先ほどまでの明るさがない。そんなに、望月くんと比較されることを彼女は意識してるんだろうか。
「だめです。あの車は僕のものですからね。往きだって、二人に祥子さんを譲ったんです。さんざん堪能したんでしょう、2人して祥子さんのこと。SAでセルシオを捕まえることが出来たら今度は僕が祥子さんと帰る番です。」
「もう、美貴まで。」
「山崎だって本音はそうだろう。昨日一晩英気を養ったんだ。祥子さんと二人きりになれるチャンスを逃す訳ないだろ。」
「そりゃ、そうですけど。」
望月くんに祥子さんを委ねている間、彼の胸に甘える彼女を想像するだけで・・・あんなに彼女に吐出したあとだというのに・・・私は幾度も軽く昂った。さすがに石塚さんと同室だったから、自慰することまではしなかったがここに祥子さんがいれば誰にも渡したくないというのが本音だ。
「やっぱり、望月くん1人をセルシオで帰らせて、この車でみんなで帰れば良かったんだよ。」
「リアシートに4人は座れませんよ。」
「いいさ、祥子さんがそこにいて彼女の香りの空気が吸えるだけで幸せだからな、俺は。」
まぜっかえす美貴に、石塚さんが真面目な風を装って切り返す。
「ははは・・・ま、紳士的でいられるのも我慢できなくなるまでだけどな。いざとなれば、そこいらのホテルに入ってもらえばいいだけだしな。」
クッ・・・ ブレーキが踏まれる。
いつもみたいに仕事帰りの夜の車の中でお酒が入ってから交わされる猥談とは違う。普段なら結城くんの前では紳士的でいてくれるこの二人も、まだ祥子さんの余韻に酔っているのだろう、セックスを露に感じさせる会話が結城くんをびっくりさせてしまったのかと思った。
が、どうやら関越道に合流して間もなく渋滞につかまったらしい。
年始のこの時期・・・しかたないことだろう。
「この先で事故渋滞のようです。一度上里のSAで休憩してもいいでしょうか?」
「ああ、任せるよ。君も昼食が取りたいだろうからね、上里で停まろう。いいだろう?」
結城くんの提案に、石塚さんも美貴も首を縦に振った。
ウインカーを左に上げて、結城くんは混雑している上里SAに車を入れた。
外伝2/レンジローバーの帰り道 5
どういうわけか、今時の女の子にしては彼女はこの手の話には奥手だった。運転手にして1年経つが、彼女から<男>の匂いがしたことはまだない。「もう石塚さんたら、冗談が過ぎますよ。結城くんが困ってるじゃないですか。まだ山道が続くんですから、石塚さんの新車で事故ってもしりませんよ。」
「そうか?こんなにかわいい子が1人で滑っていたら、俺なら声かけるぞ。」
たしかに、長身の祥子さんと違って小柄な彼女が1人でゲレンデで転んでいたりしたら・・・つい助けにいってしまうかもしれない。
「声を掛けたのがこんなおじさんなら無視しますよね、結城さん。」
美貴が助け船を出すなんて、珍しいことだ。
「・・・どう答えていいか、わかりません。」
「ははは、まいったな。結城くんに振られちゃったよ。」
「そんな・・・」
困惑しきった彼女の声を、石塚さんは笑い飛ばしてくれた。これで、この話は終わりだ。
「食事は、大丈夫だったかな。飽きたりしなかったかい。」
「はい。美味しかったです。」
けなげに答えるが、旅先の1人の食事が愉快なわけはない。
「1人にさせて済まなかったね。ありがとう。」
「こうして帰りは3人のちょい悪おやじが一緒にいるから機嫌をなおしてくれ。」
「そうだね。今日は一緒に夕食でもどうだい。結城さんの好きなものをごちそうするよ。」
「いいね。3が日だがいい店があるかな。」
「なにが食べたい?結城くん」
よかった。これで少しはひとりぼっちのお正月をさせた罪滅ぼしができるというものだ。
「ありがとうございます。あの、でも専務・・ほんとうにご一緒していいんですか?」
困惑した声だ。望月くんと違って彼女は単なる運転手だ。このメンバーを運転する車に乗せることはあっても、食事や商談の席に同席させたことは一度もない。
日頃の周囲の評判を聞く限り、一緒に食事をして私が恥をかくようなことはしないだろう。
「ああ、いいよ。今夜は一緒に夕飯を食べよう。」
「うれしい。ありがとうございます。」
やっと、本当に声が明るくなった。こうして会話をすることで、やっと気持ちが解れたんだろうか。
「あの・・・中華でもいいですか?ホテルにちゃんとした中華レストランはあったんですが1人じゃ入れなくて。」
「いいね。美貴、どこかいい店がないか?」
「そうだな。タワーホテルの中華ならなんとかなるだろう。あとで高速のSAで予約の電話を入れて置こう。」
「あそこの北京料理は旨いからな。北京ダックとフカヒレの煮付けをオーダーしておいてくれ。」
「はい、はい。もう、石塚さんのためじゃないんだけどおかしいなぁ。」
ははははは・・・・。
車内が笑いに包まれるころには、もう高速のインターが眼の前だった。
専務はあたしのことなんて忘れてるのかと思ってた。こんなに・・・石塚様や美貴様まで気を遣っていただけるなんて、淋しかったけど来てよかった。
それに一緒にお食事。いままで沢山あたしの運転する車にこの方達には乗っていただいたけど、いつも目的地までお届けするだけ。それが、お食事に誘ってもらえるなんて。これからも時々こんなことがあるかも?
あぁ、ホテルのレストランに専務に連れて行ってもらえるんならもっとお洒落なカッコしてくるんだった。
外伝2/レンジローバーの帰り道 4
エンジンを掛けたままにしていた車は、あたたかだった。羽織ることもしなかったコートも荷物と一緒に積む。
「鍵をかけてくる。助手席は俺が座るからな。」
別荘の扉に向かった石塚さんを置いて、私は美貴とリアシートに収まる。
「門外に車を出してくれ。」
「はい。」
運転席からは、少し明るい声の結城くんの返事がした。バックから玄関先に入れていたレンジローバーを、別荘の敷地外へと出す。
ガチャン・・・門扉の鍵を掛ける音がした。
「寒いな・・」
バッン・・・ 石塚さんが肩をすくめるように助手席に乗り込んだ。
「祥子さんのいないここには用はない。さっさと東京に戻ろう。」
「まったく、身勝手ですね。」
美貴が呆れた様に口を開いた。石塚さんが車内に来て、なんとなく結城くんの持つ張りつめた空気が緩んだ感じがあったからだろう。
「出します。」
結城くんの口から、往年のロボットアニメを彷彿とさせるような台詞が出る。
ララー・スン少尉だっけ・・・。はは、こんなこと言おうもんならまた山崎はおたくだと美貴にバカにされそうだ。
「ああ、頼むよ。」
まるで自分の部下みたいに、石塚さんが答える。
スタッドレスが上がりはじめた気温に緩んだ氷の道を軋みながら動き始めた。
よかった、<祥子さん>はいないんだ。往きみたいな、あんないやらしいこと・・・起きないんだ。よかった。
「ホテルのお正月は満喫できたかな?」
3日間。こんな場所まで連れて来ていながら、ほとんど結城くんのことはひとりぼっちで放置しておいたようなものだ。
往きだって、私達は運転席の後ろにカーテンを閉めてリアシートに祥子さんと閉じこもっていたようなものだった。いくら仕事とはいえ、彼女も淋しかっただろう。
「はい。いいお部屋をご用意いただいて、ありがとうございました。」
「スキーは得意なんだろう。長野の出身だっけ?」
「はい。茅野です。得意というほどではないですが、一応滑れます。」
「あそこのゲレンデは面白かったでしょう。雪国育ちなら少し距離が短くて物足りなかったかな?」
石塚さんだけでなく、美貴までもが彼女に気を遣ってくれていた。
「そんなことは、ないです。表万座までのシャトルバスも出ていたので、あちらでも滑らせてもらいました。」
「そうか。表万座の斜面はスピードが乗るからな。腕があるなら楽しかったろう。ナンパはされなかったのか?」
ああ、よかった。彼女なりに楽しんでくれていたんだ。
と、思った途端に・・・不埒な質問は、勿論石塚さんだ。
「そんなこと・・ないです。」
「ほんとうにそうか?せっかくどんな男を連れ込んでも困らない様にダブルの部屋にしといたんだぞ。」
「えっ・・」
結城くんが固まる。一瞬バックミラーの彼女が私に助けを求める視線を投げたような気がした。
外伝2/レンジローバーの帰り道 3
「綺麗だったな。ウエディング姿の祥子さんは。」「ええ。あのまま教会へ拉致して誰にも触れさせたくなくなりましたよ。」
美貴の言葉は、あの場にいた全ての男の気持ちだろう。
その気持ちの裏返しが、あのサディスティックなダイスゲームなのが美貴らしい。
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「望月くんも含めて4人でいても、全員が満足してしまう。そりゃもちろん、いろいろ思うところはあるさ。でも、こんなのは他の女じゃ考えられない。」
「そうですね。どうしてなんでしょう。」
ピン・ポォン・・・ピン・ポォン・・・
私がなにかを答えようとした時に、結城くんが到着したドアホンが鳴った。
あのこは、だれも答えないからといって自分からドアを開けるようなタイプではない。誰かが答えて開けるまで、じっと玄関先で待っているようなコだった。
「結城くんが来たようです。続きは車で・・・。」
「ああ。そうだな、帰り道も長いからな。」
先ほどと逆に石塚さんはメインベッドルームのカーテンを閉めた。
やっと昨日の夜に「明日チェックアウトして別荘まで迎えにきなさい。」って専務からのメッセージが入った。どんなに贅沢かしれないけど、1人のホテルは淋しかった。それに専務と一緒にいるのがあの<祥子さん>で、1日以上も予定より長く一緒にいたのかと思うと嫉妬で気が狂いそうだった。
綺麗な人だけど・・・往きの車のなかでずっと・・バージンのあたしにだってわかるようなこと・・・専務と石さんにいやらしいことをさせてた。まる一日消すのにかかっちゃった淫乱な匂いを自分もそれに専務にもさせる女。
ようやく専務のお顔が見られるけれど、最初に迎えに行ったときみたいに<祥子さん>がいたら嫌だな。専務が<祥子さん>しか見なくなるから・・・いや。
「待たせたね。」
「いえ、お荷物はどれでしょう。」
結城くんは元旦の朝、タワーホテルの扉の前に立っていたときと同じ表情でそこにいた。
「これだけだ。自分で運ぶからリアを開けてくれ。」
石塚さんが陽気な調子で結城くんに声をかける。
この人はいつもそうだ。少し神経質な感じで壊れそうなガラス細工のような風情の女の子なのに、ことさらに気を遣うといった風情を見せはしない。
どちらかというと一見は乱暴に見える物言いで踏み込む。でも、しばらくすると結城くんもリラックスして見えるのだからそれはそれで、この人らしい人心掌握術の1つなのだろう。
美貴は、ちょっとだけいつも結城くんのことは苦手そうにしている。
嫌なんじゃないだろうが、「彼女と居ると自分のしてることが汚いって非難されてるような気がするんだよ。」と飲んだ席で愚痴ったことがあった・・・のが本音だろう。
3人のトラベルバッグと、望月くんが用意してくれた着物を入れたバッグが3つ。荷物はこれだけだった。
私達はそれぞれにバッグを手にして、レンジローバーのリアにまわる。
「ありがとう。」
この車を降りた日、祥子さんのフェロモンと私と石塚さんの精の匂いで噎せ返りそうだった車内の空気は、ほんの僅かも残っていなかった。
今日下ろしたばかりの新車だと言われてしまえば、そう信じたくなるほどに車内の空気は清浄だ。まさか、このコはこの休みの間車の清掃に精を出してたわけじゃないだろうな。
外伝2/レンジローバーの帰り道 2
だから、きっと今度もそうなるだろう・・・と精の尽き果てた私達は半ば期待して、伸びた滞在日程の分だけ、望月くんひとりに祥子さんを託したのだ。だが、今度ばかりは望月くんは必死の忍耐を見せたらしい。
もちろん、祥子さんは目の下にうっすらと隈を浮き立たせるほどに疲れ果てていた。一番若い望月くんが、持てる精力を尽くしたくてもとても応えられる状態にはなかったのかもしれない。
朝日を見た後の昼のまどろみも、夜の長い時間も・・・とうとう一度として、ほんのかすかにも祥子さんの<あの声>が聞こえる事はなかったのだ。
「ゆうべも結局静かだったな。」
まるで私の脳裏を覗いていたかのように、石塚さんが呟く。
「もし、ゆうべ祥子さんの声が聞こえたらどうするつもりだったんですか?」
同じ部屋の隣のベッドに寝ていた石塚さんは、何度か寝返りをくりかえしていた。時折深い寝息といびきが聞こえていたのでウイスキーの酔いで寝入っているとばかり思っていたが、そうでもなかったようだ。
「そうだな。メインベッドルームのドアを開けて、俺も襲っていたかもしれないな。」
美貴の多少いじわるな質問にも、さらっと答える。
「元気ですね。」
「我慢できるくらいなら、こんなに執着しないさ。」
「ははは、確かにそうですがね。」
私達もそして祥子さんも忙しい。
次にいつ逢えるのか、誰もわからなかった。
そして、だめになってしまうかもしれない約束を、無駄に祥子さんに押し付けることも出来ないでいた。
「さぁ、忘れ物がないように確認してくれ。まぁ忘れて行っても、俺のとこだからいつ取りに来てくれても構わないけどな。」
万座鹿沢口を右折した先の左手にあるこの雪の別荘は、石塚さんの持ち物だ。
ずっと祥子さんが休んでいたメインベッドルームは、実は石塚さんのための部屋だった。
「ゲストルームのベッドも手を抜かなくて正解だったな。」
夜通し責め続けた祥子さんを望月くんの手に委ねると決めた時、石塚さんが悔し紛れに口にした一言が妙に耳に残っている。きっと、ゲストルームのベッドで眠るのなんてはじめてのことだったんだろう。
自分たちの荷物は、今朝方まとめたものをもう望月くんが玄関口まで運んでくれてあった。
食料品は、ほとんど使い果たしたらしい。わずかに残った調味料だけが、冷蔵庫に残っていた。
ゴミは管理事務所が焼却処分してくれるし、生ゴミは車庫の脇に目立たない様に設置されたコンポストで有機解体されることになっている。
浴室は、メインもゲストも望月くんがきれいに洗って温泉の栓も締められていた。
祥子さんへのプレゼントの数々は、セルシオに積まれて既に東京に向かっている。
食器やスリッパなどは、もうこのままこの別荘の備品にすることに石塚さんは決めていたようだ。
行きに、セルシオとレンジローバーに満載してきた様々な荷物は、ほんとうにこじんまりとまとまっていた。
三人は、手分けをして別荘の中の忘れ物と戸締まりを確認していった。そして、結局メインベッドルームに集まってしまった。
「なんだかまだ祥子さんの香りがするみたいですね。」
「ああ。」
石塚さんが正面の壁一面にかかったカーテンを開く。そこは、昼の光をきっかりと反射する鏡面だった。
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