秋の気配
都心ではまだ半袖を仕舞うことをためらう日差しが
思い出したように繰り返される頃
青く澄んだ湖にもう一度向かう機会が訪れた
前回はあの男性とご一緒だった
今回は一人でほんの数時間だけの自由時間
岸辺に立つと耳元に
先日聴いたピアノの白鳥の湖がリフレインする
悪魔から昼は白鳥・夜だけ人の姿になる
呪いをかけられた王女と侍女たちが
ここにひっそりと羽を休めているのかもしれない
現実にはありえない景色
でもどこよりもここに相応しい
青い湖面から朝の陽がキラリと目を射る
もうビジネスの時間が近い
まもなく雪に閉ざされるこの土地を
また訪れたいと思う
車に向かいながら大きく深呼吸をした
酷暑も過ぎて
最高気温が体温と近い値を繰り返す日々がようやくと過ぎた夜風鈴の涼やかな音色を聴きながら
夏の夜の華やかな祭典の思い出を繰る余裕が出来たきがする
贅沢すぎる彩
惜しみなくあげられる尺玉
身体の奥を揺さぶる火薬の音色
「世界中の人の命を奪う爆弾に使われた爆薬が花火になれば
このように美しい時間を多くの人と共有できるのに」
そう繰り返されるアナウンスの声にふと涙してしまうのは
美しすぎる一瞬の景色のせいだけではなかった
きらびやかなエンディング
人々が笑いさざめきながら帰路につく
わたくしの隣で何も聞かずにずっと花火を見つめてくれた男性に
心を委ねて優しい風の吹く川辺の道を辿った
北の国では
昨日まではこの街らしくない梅雨空だったという今朝も町は晴れていたのに
山の中腹には濃い霧が立ち込めていた
「出来れば静かなラベンダー畑が見たいけど無理かしら」
いつも控え目なあの女性のリクエストだからこそ
ぜひ応えてあげたくなった
そもそもは新しいホテルの竣工式があったからというのが
この街に来た理由だった
「7月の中旬はラベンダーのハイシーズンですから
よろしければどなたかとご一緒にいかがですか?」
ホテルの支配人の一言でこの女性を連れてくることを決めた
「人のいないラベンダー畑は早朝しかないですね」
予約をしたタクシーのドライバーはそう言った
「何時にスタートすればいい?」
「午前4時ですね」
なので、昨夜はあの女性とはキスしか交わしていない
ラベンダーの香りのシーツはだから一層悩ましかった
「霧がなければもっと良かったですね」
「ううん こんな景色きっと二度と見ることができないもの」
俺の隣でこの女性は静かに首を横に振る
「霧に包まれて香りを纏っているようだわ」
白い肩にラベンダーの薄いストールを見た気がする
揺れる花穂
飛び交う虫たち
密やかなここだけの交歓
肩を引き寄せたくなったが
それ以上を我慢する自信が今はない
「ショップは開いて・・・いるわけがないわね
ごめんなさい」
「いいえ 気に入ったのなら
後でまた来ましょう」
思い出以上のものを欲しがったことがないこの女性に
何をプレゼントしようか・・・今から楽しみになった
梅雨の間に
約束した日は珍しく雲の厚い朝だった御堂の傍らには石仏たちが肩を寄せ合い
祈りを込めた結び紐が
御堂の中を虹色に染める
「晴れていたらもっと綺麗だったかもしれないわね」
手を合わせる横顔に雲の切れ間から
差し込む日差しが彩りを添えてゆく
「客殿で一休み、いかがですか?」
長い車移動の気分転換に
インスタグラムで人気だという
ここに立ち寄ってみた
目玉はここの客殿だという
流行に敏感な男を演出したくて連れてきたわけではない
それでも、平日の朝早く
この時間なら物見高い観光客も少ないだろう
そのぐらいのことは考えていた
『そこまで頑なに考えなくてもよろしいのやおへんか』
天井画から夏の装いの舞妓さんがそっと囁く
「猪目窓のお寺さんてこちらだったのね
雨が上がったのかしら
外が明るいこと」
明るい緑の窓の景色が彼女の目を引く
「今日はこの後結婚式の前撮りの方がっ・・・・」
お寺の方が息を飲むのがわかる
猪目窓の前で
艶やかに立ち尽くす彼女の唇を
貪るように奪った
紫陽花の道
梅雨に入るにはまだ少し間がある涼やかな日初めて川沿いの紫陽花の小道を見つけた
日差しを遮るほどの大樹はない
そのせいだろうか
早咲きの紫陽花の花色が他所よりも
鮮やかさを増していた
「幕末の歴史好きな方なら
きっと喜ばれるでしょうね」
「あまりお好きではないですか?」
「わたくしは同じ歴史でもものづくりの皆様の
歴史の方に興味がありますわ」
ふふふ と微笑むこの女性の目指す場所は
もう少し先に見えるはずだ
ゆらりゆられて
差しつ差されつ
いつかこの柔らかな肌を腕の中に
そんな時間を夢見たくなる場所
歴史の英雄たちと重ね合わせた
男のロマンなどという安っぽい言葉は
この女性の前では使いたくはない